一見スマートな見取り図にセンセーショナルな題材が目を引くが、雑すぎる議論で台無し:『モノ・サピエンス:物質化・単一化していく人類』(光文社新書)


 この人の著作は前にも読んだことがあるが、ニューアカや東浩紀に影響された哲学専攻者の思いつき現代社会語り、という感じ。そもそもが生命倫理畑の研究者なのに大陸系現代思想に首を突っ込み、上澄みの更に上澄みをすくって「どうです? 簡単でしょ?」と説明してしまうスタンスが気に食わない。明らかに対象への敬意がなく、「なんだこんなもんか」と思わせる書き方をする。当の思想家自身の著作や、せめて本格的な入門書を1、2冊でも読めば、ひどくいい加減な取り上げ方をしていることが分かるだろう。
 また、着眼点はそこそこ面白い、というよりキャッチーでセンセーショナルな題材を好んで取り上げるので興味はひかれるが、そこから粘り強く思考を練り上げるということをしないで、思いつきの雑なコンセプトを雑に現象に当てはめる。だから、話が独りよがりになりがち。そのうえ、いかにもシラケ世代をこじらせたようなシニカルな物言いが鼻につく。総じて、東浩紀の劣化N番煎じという感じ。
 
 本書もご多分にもれず。
 まずタイトルはそれこそポモくさい言葉遊びで、「モノ」には物とmonoという2つの意味が込められている。前者は文字どおりの意味で、つまるところ現代は人間の尊厳がふたたび失われ、物扱いされつつあるという。後者のmonoとは「単一の」という意味で、つまるところ現代の人間は単一化・画一化しつつあるという。
 さらに本書の議論の出発点、消費者社会にある。現代では、あらゆることが消費者中心に考えられている。消費とは、モノを使い捨てにする行為である。現在の我々は、この消費という暴力を我々自身にむけるようになった。その結果が「モノ・サピエンス化」である。
 
 さて、著者はこの消費社会について、「差異の戯れ」という決まり文句で説明する。これに関しては説明不要だと思うが、その後は「差異を管理する」時代になった、これはフーコー的な規律訓練からの転換でもあるという。さて、自分にはこの「差異の管理」とやらが何のことだかよく分からない。もちろん2000年代に日本で流行っていた議論は少しだけ知っているので、東浩紀の「環境管理型権力」みたいな話がしたいのだろう、と察しはつく。しかし、そこで出てくる事例が「高級ブランドの統廃合が進んでいる」というので意味不明である。つまり、この先生は「差異の戯れ」の例として色々なブランドを人びとが身につけている様子を挙げていたのだが、そのブランドが統廃合を進めているから「差異の戯れは終わりで、差異の管理が始まった」と言うのだ。白状しよう。自分にはまるで理解できない。
 
 第2章「モノ化するカラダ」から本書の主眼である「人間のモノ化」論が始まるのだが、各章の議論は、いろいろなトピックについてあらましをダラダラと解説し、後半になってそのトピックに「これは人間のモノ化だ」と自説を雑に当てはめる、という構成をもつ。第2章で著者が挙げる例は、なぜか援助交際である。しかも、ここでも中学生かよってくらいの露悪趣味を全開に、「身体の自己所有権や愚行権といった近代的価値観に照らして、援交を倫理的に非難することはできないよねフハハ」みたいなことをのたまう。ま、そりゃそうだが、未成年は判断能力が不十分とみなされるのでは? 
 それはさておくとして、章の終わりかけになってようやくテーマに移る。要は「女子高生は自分の身体をモノ化しているよね。ほら、モノ・サピエンス化だよ」という話なのだが、他方でその前に、「労働力としてのカラダ」を売るという点で売春も労働も本質的に変わらないとも述べている。だとすれば、たいていの労働はカラダをモノ化するのだから、現代に始まったことではない、ということにならないか? なぜ援助交際だけが「カラダのモノ化」に該当するのか? それは、援助交際はカラダを使い捨てにするからだそうである。若いときしかできないという意味なら、そもそも売春は概ねそういうものだからやはり現代に始まったことではない。
 
 第3章「モノ化する労働」で取り上げられるのはフリーターである(どうやら著者は若者をあざ笑うのがお好きらしい。日ごろ学生にバカにされているのかな?)。この章も援助交際と同じく、「そもそもは若者の『自己決定』の尊重から始まったことだよね」という点が強調される。しかし、もちろん著者も認めるように、今では非正規雇用は主に企業の都合で行われる。つまり、「使い捨て=モノ化される労働」というわけだ。
 これも著者自身分かっていることだが、企業は競争原理に従う以上、生き残りのために労働単価を抑えることを強いられている。つまり、規制緩和された資本主義によって苦境に追いやられる人びとが増えているというだけのことで、こんなことは誰もが分かっている。この事象に「モノ化」と名付けることで何か新しい知見が足されるとは思えず、「だから何?」としか返しようがない。個人的には、ホックシールドの「感情労働」概念を援用すれば多少は面白くなっただろうに、と思う。
 
 この時点で真面目につきあう気が失せて、斜め読みで済ませたのだが、このあともデザインベイビーなどの個人主義的優生学が話題になるように、各章を通じて著者は「自由が招いた逆説」を強調したいようである。まぁ大ざっぱに言いたいことは分かる。つまり、近代的の主要な価値である「自由」は経済の発展のなかで拡大していき、やがて前世紀後半に豊かな福祉国家・消費社会をもたらしたが、そのなかで旧来モラルも崩壊し、不況と新自由主義化が進んで格差社会になってしまったと。また、科学技術の進歩とともに遺伝子改良などにまで自由が徹底されていけば、むしろ自由は失われ、人間が画一化していくSF的ディストピアを招くであろうと。要するに著者の主張は一種の「啓蒙の弁証法」であり、この結論自体にはわりと同意できる。しかし、まったく論理的に話を展開できていないので、読んでいて少しもピンと来ない。

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