「日本にとっての第一次世界大戦とは外交上稀に見る失政の連続の歴史に他ならなかった」 : 『複合戦争と総力戦の断層:日本にとっての第一次世界大戦 (レクチャー第一次世界大戦を考える)』

 本書ではまず、
2つの実戦 :日独戦、シベリア出兵
3つの外交戦:対英、対中、対米
から成る、10年9ヶ月にわたる〈複合戦争〉として「日本にとっての第一次世界大戦」を捉える。そして、根底には「中国における権益の確保」という関心が一貫して存在していたという観点に立つことで、「日独戦」「対華21ヵ条要求」「シベリア出兵」といったこの時期の大日本帝国のアクションを統一的に把握している。このような視座から、それぞれの「戦争」における日本の指導者や軍部の様々な思惑、最終的にとられた行動、相手国の反応が、丁寧に描写されている。著者の日本の評価は辛辣に近いものがあるが、道徳的なトーンは抑えられ、あくまでリアリスティックな姿勢で冷静に評価を下していく。
 このように本書は、「日本にとっての第一次世界大戦」を分かりやすく整理した良書である。ただし、込み入った国際情勢や国内の意志決定過程を追いかけたことと、飾り気のない文体のために、あまり読みやすい(エキサイティングな)本ではない。とくに「はじめに」と第1章はまどろっこしいので、一旦飛ばしてもいいかもしれない。
 
■長期化という誤算
 加藤高明外務大臣は日英同盟を重んじ、これを口実に参戦することで所謂「中国問題」を一気に解決しようとした(山県ら元老は他の連合国との協調を主張していた)。彼の誤算は、国内外の多くの人々と同様「この戦争が短期間で終わる」と考えていたことである。短期間で終わるからこそ、拙速ともいえる強引さで事を急いだのだった。
 しかし同盟国であったイギリスからは、日本がアジア・太平洋で勢力を拡大することを当初より警戒されていた。結果的に、日本の行動はまさにその通りのものとなったし、そのうえ地中海への派遣には消極姿勢をみせたことで、イギリスだけでなく連合国から反感を買うこととなった。それがパリ講和条約での日本の孤立をもたらした。
 
■ロシア革命という誤算
 日本にとって不運だったのはロシア革命だった。というのも、中国をめぐってアメリカとの対立を深めていた日本にとって、「満州権益を確保するパートナー」だったからである。本野一郎外務大臣は1916年7月に第四次日露協約の改定をおこない、「実質的な軍事同盟」を結んでいた。つまり、加藤が去った後の日本外交は、元老らの方針に近かったといえる。著者は「ロシア革命が起きなかったならば第一次世界大戦は日ロ軍事同盟によって日本は英米と対立する構図となっていたはずだった」と言う。
 
■外交パラダイムの変化の見落とし
 加藤は元老らを外交の意志決定過程から排除し、「外務省による外交一元化」をめざした。しかし、彼の外交手法そのものは秘密交渉・軍事的威嚇・策謀などによる「旧外交」であった。ところが、こうした旧外交が無効化していくのが第一次世界大戦の過程で起こっていたことだと著者は言う。
 
■中国ナショナリズムの勃興の見落とし
 著者は、自国であれ他国であれ、日本の指導者層における「世論に対する鈍感さ」を指摘している。つまり、国家の決定や相互作用は、民衆の世論と無関係に行われるという国家観であった。
 そのため、1912年の辛亥革命により中華民国が成立したように、中国でナショナリズムが高揚しつつあったことも軽視していた。そうして対華21ヵ条要求をつきつけ、中国の世論(国民感情)を無視して威嚇的態度をとることで、日中間は「政府間の対立」から情緒的な「国民的対立」にまで高まってしまったと著者は言う。
 対華21ヵ条要求はさらに、イギリスから日英同盟破棄を示唆されるほどに、日本の国際的イメージを激しく傷つけた。また、アメリカはこれを利用して中国の庇護者のように振る舞った。
 
 著者の総評をまとめるならば、「日本にとっての第一次世界大戦とは外交上稀に見る失政の連続の歴史に他ならなかった」(p.154)ということになるだろう。この一連の過程で、アメリカを筆頭とする列強や、中国、ソ連から大いに反発を買ったことが、1930年代以降の歴史の1つの「伏流」となったのである。実際、こうしてみると1930-40年代の流れが1910年代の反復であることが分かる。さらに、第一次世界大戦直後の時点ですでに、民間レベルで対米戦争がなかば宿命論的に語られていたという話は興味ぶかい。
 このように本書が提示する〈複合戦争〉という視座は、第一次大戦間の米・英・中との外交、およびシベリア出兵のなかに、「中国という根本動機」「古い外交手法」「諸外国との関係悪化という結果(政府レベルだけでなく国民レベルでも)」という一貫性を見出すことで、「日本にとっての第一次世界大戦」の見通しをよくしてくれるものだと思われた。さらにそれは、言わば「伏流」として、1930年代の流れへの影響を窺わせるものでもあった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?