「人格崇拝」と「合理化」の行きすぎが、現代人を自己コントロールの檻に閉じ込めている:『自己コントロールの檻』(講談社選書メチエ)

 本書は現代社会(といってもこのレビューの20年近く前だが)を、①〈心理主義〉、②〈人格崇拝〉、③〈マクドナルド化〉(合理化)という3つの特徴が、過剰に発達してしまった社会として捉える。社会の〈心理主義〉化とは、「さまざまな社会的現象を個人の心理から理解する傾向や、自己と他者の「こころ」を大切にしなければならないという価値観、そのために必要な技法の知識が社会のすみずみに行き渡ってきている」ことを指す。〈人格崇拝〉とは「個人の人格を尊重すべきものとみなす」ことであり、近代以降の先進国社会の規範として社会学者デュルケムが挙げ、その後ゴフマンが検証した。
 これらは別個に存在するのでなく、〈心理主義〉の背景として〈人格崇拝〉と〈マクドナルド化〉という思潮があると同時に、それらは〈心理主義〉によって強化されてもいる、というのが著者の見立てになる。つまり、本書で立てられる主要な仮説は以下の2つである(p. 45)。

1)現代社会は高度で厳格な人格崇拝にもとづいて構成されている。人びとが高度に厳格に人格崇拝すればするほど心理主義化は進行し、心理主義化が進行するほど人格崇拝はますます高度で厳格になる
2)心理主義化してきた現代人は、「マクドナルド化」した人びとである。つまり、心理学的知識や技法を身につけて、生活のあらゆる場面でより合理的に振る舞い、スムーズに予想したとおりにものごとを進行させようとする人びとである。「マクドナルド化」した人々は、雇用流動化をはじめとするフレキシブルで合理的な社会編成を促進しており、それによって社会の〈心理主義〉化をいっそう推し進めている
 
 このように、著者の考えが述べられる序盤はなかなか面白く共感できるのだが、本題に入ると巷のポップ心理学本(小此木啓吾や和田秀樹、EQ本など)をネチネチと裏読みする論証作業が始まり、説得力や知的興奮にいささか欠けることは否めない。とっくにこれらの流行本が忘れ去られてしまった今日となっては尚更である。また、上の引用文を読んでもわかると思うが、著者の文体はやや生真面目でレトリック面に弱さがある。
 加えて、著者は、当時流行していた「キレる人が増加中」という言説に反論するために、あれこれと想像力を働かせるのだが、あくまで想像でしかない。たとえば、小此木啓吾の著書をとりあげた章では、身近にいる「困った人」は「ふつうの人」との間に「ちょっとした差異」しかないと小此木が書いていることに着目する。にもかかわらず、小此木は「困った人」に怒る読者を安心させたり宥めたりするのでなく、「困った人」を問題視させる方向に誘導している。・・・ここから著者は、他ならぬ小此木のような精神科医や心理学者のせいで、「ちょっとした差異」を気にする人が増えてしまった結果、キレる人が増えてしまったと推論する。つまり著者が言いたいのは、「キレる人」の増加とは、「困った人」の増加ではなく、「困った人」を過剰に問題視する人間の増加だ、ということである。こういう発想、私自身は嫌いではないものの、そうかもしれないが、そうでないかもしれない、としか言いようがない。
 ここでの問題は、こうした話に説得力をもたせるにも、心理学的手法が必要になるのではないか? ということである。というのも、著者は結局ここで人々の心の傾向について語っているのであり、それが言いっ放しにならないためには、「○○な人間ほどキレやすい」とか「ポップ心理学本を読む人ほど○○だ」とかいったことを調査する必要があるように思われるからだ。
 
 この15年で、この手の社会学に対する「エビデンス・ベースト」な懐疑はけっこう一般に強くなってきたと思う。本書にはそうした懐疑に耐えきれない議論の弱さや、やはり時間経過によって楽しめない部分がある。とはいえ、著者が拠って立つ「知識社会学」の基本的考え方や社会学の古典などが頻繁に紹介されて勉強になるし、「心理主義化(心理学化)」論自体はすっかり廃れてしまったとはいえ現代社会の特徴としてまだ無視できない論点と思われる。〈合理化=マクドナルド化〉に焦点をあてたことも、ポストモダン的な消費社会論が90年代はまだ主流だったなかで、本書刊行の翌年に発足する小泉政権から今日までつづく時代傾向を見通していると思う。
 
 さて、刊行から17年後の2017年現在、本書が描き出す現代社会のありようはどのように変わった、あるいは変わらなかったのだろうか。適当に思いついたことを書いてみる。〈マクドナルド化=合理化〉については言うまでもないだろう。21世紀に入り、新自由主義は隆盛の極みにある。
 それでは〈人格崇拝〉はどうか? 今日ではSNSが発達し、リアルではまず出会わないような種類の他者どうしの思考や会話がウェブを通じて可視化された結果、あちこちで対立が生じ、それが論戦にとどまらず誹謗中傷合戦に発展する無残な光景が繰り広げられている。そこでの1つの対立点として、「ポリティカル・コレクトネスの是非」が挙げられよう。
 このポリティカル・コレクトネスを重んじる諸々の配慮は、〈人格崇拝〉という思潮のひとつの現れと考えてよいだろう。しかし、近年これを攻撃する人々が目立ってきており、これは、〈人格崇拝〉という現代社会の特徴が薄れてきつつあることを示すものかもしれない。
 そもそも、ポリティカル・コレクトネスが言われるようになった背景には、「左翼の経済からの撤退」があると言われている。つまり、1960年代以降の先進国では、経済的繁栄のもと、徐々に「階級から、人種・性などを含む多様な争点へ」という政治思想の転換が起きていた。その後1970年代の2度のオイルショックを経て、1980年からは、共産圏の衰退とネオリベラリズムによる福祉国家の弱体化が進み、そのまま現在に至る。つまり、ふたたび格差拡大という経済面での古典的問題が深刻化しはじめていたにもかかわらず、資本主義の代替案を出せないがために、左派知識人たちは経済よりも他の争点を優先して語ってきたのだ。このような人々を指して、アメリカの政治哲学者リチャード・ローティは「文化左翼」と呼んで批判している。
 こういう背景を念頭に、本書が挙げる〈人格崇拝〉および〈合理化〉という現代社会の道徳に立ち返ってみる。すると、福祉主義から新自由主義へと先進国が変容しつつあるなかで、〈人格崇拝〉は前者の特徴、〈合理化〉は後者の特徴を代表しているものだったことがわかるだろう。そして本書から17年が経過し、〈人格崇拝〉が攻撃されている状況は、この変容がさらに進んでいることの現れと考えられるのではないだろうか。
 そもそも気になるのは、この2つの特徴の両立可能性である。企業が経営の〈合理化〉を進めるなかで、従業員を道具として使い捨てることは当然に起こる。『生政治の誕生』でフーコーは、現代人は自分自身をひとつの企業とみなす生き方を強制されていると述べた。〈合理化〉という考えがますます浸透していくなかでは、「自分の損得が全てであり、他者はそのための障害物か道具でしかない」という態度が個々人のあいだに広まってもおかしくないと思う。

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