マンガ中心の特集:『ユリイカ 2016年11月号 特集=こうの史代』

 『この世界の片隅に』の劇場アニメ公開に合わせた特集だが、劇場版を論じているのは土井伸彰、藤津亮太の2名しかいないので注意。あとは片淵須直監督、主人公すずを演じたのん、それぞれに対するインタビュー記事がある。
 残りは特集名にあるとおり、マンガ作品を論じた論考を中心に構成される。やはりというか、話題の中心は『夕凪の街 桜の国』および『この世界の片隅に』にあるが、他の作品もまんべんなく言及されている。
 こうの作品における「日常」とは何か、政治性/非政治性、マンガ表現など、重要な論点はだいたい論じられている。これらを咀嚼していくことで、こうの作品への理解を少しは深めることができたと思う。
 そして何といっても単行本未収録の「ナルカワの日々」「ぷらづま記」「たまのを草紙」「へるめすの書」が読める。
 
■こうの史代と西島大介の対談
 冒頭の対談もこの二作から始まっていて、こうのの自作へのスタンスが率直に語られている。しかし、その後は劇場アニメ、キャラクター描写の特徴、描線やコマの実験、そして最新作『日の鳥』についてなど、いろいろと語られている。これらの話題は、以降の各論考ともリンクしているのが興味深い(というか、執筆者はあらかじめ読んでいるのかな?)。なかでも以下の3点については、後々触れたいと思う。1.こうの作品の「萌え要素」。2.人間関係の危うさ、他者の分からなさ。3.「外側の視点」を導入すること。
 
■『この世界の片隅に』原作について
 論考の最初の3本は『この世界の片隅に』論。一番手は細馬宏通で、連載誌『漫画アクション』で読み直し、連載を追うのを擬似体験しようと試みる。一見すると面食らう試みだが、いつもどおり洞察にあふれており、こうのによるマンガ表現上の仕掛けを次々と発見していく。当時の雑誌は自分には無理だが、単行本を横に置いて確認しながら読んだ。
 続いて雑賀恵子の論考は、「身体の品質改良」としての国の食糧政策と、すず達の個人史を交互にたどりながら、記録として残る「大文字の歴史」と個人の記憶のギャップ、そして個人間の記憶もまた重なりはしないことに、思いを馳せる。最終回の「右手」の語りに通じる内容。
 そして紙屋高雪は「『この世界の片隅に』は「反戦マンガ」か」というストレートな表題を掲げている。事実を調べ上げたうえで戦時の日常を細やかに描いた動機について、「戦争を直接経験していないために、当時を正確に伝えられないかもしれない」という謙虚さがあるという指摘。しかし、「これを読みながら家族の昔話を聞くきっかけになればいいなとも思っています」という著者の言葉を引きながら、「戦争体験の継承」という問題意識が埋め込まれているとし、本作の自然主義的な描写は、話者から戦争の悲惨さをいきなり聞くのでなく、当時の日常を聞くなかでふと覗くかもしれないという効果を狙っているという。
 結論としては、「忘れない、記憶すること」と「連帯を通じた居場所の回復」が作品後半のテーマになっているとし、こうした考えがあくまで戦後の反戦・平和思想の流れにあると指摘することで、「『この世界の片隅に』は反戦マンガではない」という主張を反駁する。全体的に納得できる議論だった。
 
■劇場版について
 それからこうのの単行本未収録の短編を挟んで、片淵監督へのインタビュー。映画監督へのインタビューはウェブで読めるのもたくさんあるので、あまり有り難みないというのが正直なところだが、内容自体がつまらないわけではない。白木リン関連の削除については、結果オーライとしている。劇場版では空襲があまりに苛烈な表現になってしまったから、日常生活まですずが痛めつけられる白木リンパートが無くてよかった、と。
 続く、劇場版『この世界の片隅に』論2本は、アニメーションとしての側面に技術と歴史のそれぞれからアプローチしている。一方は海外のアート・アニメーションの、他方は国内アニメの系譜の文脈に、今回の劇場版を位置づけながら、作品への新しい見方を提示してくれる。
 
■以降の論考・エッセイについて
 ここから先は、『この世界の片隅に』以外の作品、もしくは特定の作品に絞らずに何らかのテーマでこうの作品を取り上げたものになる。どれも独特の切り口で面白いがたくさんあるので、ここからは一つひとつに感想を言うのをやめて、自分が刺激を受けたものを紹介しつつ、そこから自分なりに考えたことを2つ書き残しておきたい(めっちゃ長くなってしまった)。
 
1.こうのの人間描写と、「萌え」との関係
 先に特集冒頭の「こうの・西島対談」に戻りたい。こうのは、「聖さえずり学園」のような「萌えショートストーリー」を本当は描きたかったと話している。「恋愛要素はないほうがいいな、と思っていました。だから本当にいまでいう萌えマンガですよね」。これに対し、西島は「『この世界の片隅に』はまさに、ほのぼの日常系の萌えショートストーリーになっている」と返す。こうのは「え、そうですか?」と驚くが、西島は「他愛のない日常の出来事の連続がキープされている」と指摘する。
 
 面白いことに、さやわかの「終わっている“萌え”の時代と、続く日常について」も、「聖さえずり学園」への言及から始まる。彼によると、すでに半ば死語となった「萌え」という言葉は、「指し示すべき現実を失ったキャラクターへの感情」を、従来の好意と区別するために一時期頻繁に使われた。その後、キャラクターが指し示すべき現実を持っていないことが当たり前となるにつれ、通常の好意との区別も必要なくなり使われなくなったという。
 ところで、こうの史代が四コマ作品『ぴっぴら帳』の連載を始める1997年の2年後に、『あずまんが大王』と『どきどき姉弟ライフ』が始まり、ゼロ年代をとおして「萌え四コマ」というジャンルが確立していく。『けいおん!』(2007)のアニメ版が放送される頃には、「日常系」「空気系」などと呼ばれるようになる。これらの作品はしばしば批判的に言われるように物語性を欠いているのではなく、日常を積み重ねながら終盤にドラマを作ることでその蓄積に重い意味をもたせる構造をとっている。
 さらに、そうした日常の蓄積によって「キャラクターの実在可能性そのものへと迫っていくような作りになっていると言える」とまで、さやわかは主張する。つまり、「萌え」の対象が「指し示すべき現実をもっていない」という前提に対して、「萌え4コマ」はそうではない、というわけだ。ところで、このような「萌え四コマ」のドラマ特性は、まさしくこうの作品そのものではないか。だとしたら、「このジャンルがどのようなものとして成立したのか、その起源と定義を考える上で、そこに彼女がいたことを見逃してはこぼれ落ちるものが多すぎる」。
 
 さやわかは「物語性」と「非日常」を区別したうえで、「日常」を扱う萌え四コマの物語性を救おうとするが、やや無理があると思う。ほとんどの萌え四コマからは深い葛藤(特に人間関係)が排除されているからだ。さやわかが挙げている2作品のうち、『あずまんが大王』と対照的に『どきどき姉弟ライフ』が今日まるで話題にのぼらないことからしても、この排除は明白だ。
 たしかに対談の中で西島は、「他愛のない日常の出来事の連続がキープされている」ことを根拠に、『この世界の片隅に』を「萌えショートストーリー」だとしていた。しかし、これだけでは済まされまい。いみじくも西島が「取ってつけたように」と形容した「ずっこけオチ」は、むしろ日常の不安定さ・両義性を浮き彫りにするものではないだろうか。
 この話題にふたたび戻ってくる38ページ以下の流れで、西島は「こうの先生はもっとシリアスに価値観を共有しえない者同士の関係を徹底して描いてきたと思うんです」と述べる。その根底に「人間不信」があるとする西島に対し、こうのは「他人同士、特に男と女は絶対にわかりあえないという前提で書いています」と同意を示している。西島は『長い道』の夫婦を「きわめて危うい人間関係」と評しているが、こうした人間関係とくに男女間の「危うさ」は、『街角花だより』や『ぴっぴら帳』にも見つけることができる。この「危うさ」を覗かせておきながら、「ずっこけオチ」で覆い隠しつづける『ぴっぴら帳 完結編』の終盤などは、逆に作者の意地の悪さ(「人間不信」)を窺わせさえする。
 檜垣立哉の『長い道』論は、まさにこの点、人間関係ひいては日常の「危うさ」を、こうのがどのように主題化しているかを論じたものだ。荘介と道という夫婦の間の「徹底的なコミュニケーションの断絶」を指摘しながら、むしろ「夫婦とはどう考えても他人である」のに、「十全なコミュニケーションがあると考える方がそもそもおかしいのではないか」という思想を読み取っていて、非常に説得力がある。道の「愛らしさは確かに闇なのである」。水無田気流は、より直截に「道は、こわい女である」と書いている。
 さやわかの論考に話を戻すと、「萌え」という感情は本来「キャラクターの実在」を感じる瞬間に生じるものだったと彼は言いたいように思われる。しかし、その条件として「日常の蓄積」を挙げるだけでは不十分であり、むしろ日常の安定性を揺るがすようなキャラクターの「闇」「深淵」がなければならないのではなかろうか。だとすれば、なるほど彼の言う「萌え」という感情は、こうのが描くヒロインにこそふさわしいと言える。実際、親しみやすいデザインとコミカルな芝居で油断させておいて、突然ハッするほど妖艶な表情を彼女たちが見せた瞬間の自分の驚きは、「萌え」に近かったのかもしれない。
 とはいうものの、こうの作品の「萌え」と「萌え四コマ」の萌えとの間にどれほどの関係があるのだろう。大半の萌え四コマでは、あらかじめ男性も女性の「闇」も一掃されて、こうした「危うさ」が顔を覗かせる機会すら存在しない。そのような作品が「キャラクターの実在可能性そのものへと迫って」いるのかは疑問である。したがって「このジャンルがどのようなものとして成立したのか、その起源と定義を考える上で、そこに彼女がいたことを見逃してはこぼれ落ちるものが多すぎる」かどうかも、慎重に受け取る必要があるだろう。
 
2.登場人物を見守る複層的視点の存在
 中田健太郎の「世界が混線する語り」にも、対談からのつながりを見出せる。西島は、こうのの作品は「優しくておっとりした主人公」で一貫しているため、読者は「そこにこうの先生を重ねがち」と指摘する。中田もまた「登場人物たちは、しばしば作者自身の姿を部分的に重なって読めるようだ」とし、こうの作品には両者の「視点の混交」があるとしている。
 再び対談に戻ると、『日の鳥』について語る際こうのは「外側の視点」の重要性を述べている。しかし、それ以前の作品にも、登場人物の視点と混ざり合うかたちで「外側の視点」が「内在」しているといえるだろう。
 「外側の視点」がより明瞭なのは主人公よりも、『さんさん録』のおつう、『この世界の片隅に』の右手などだろう。『夕凪の街』ラストの「このお話は まだ終わりません」という語りもまた、皆実のものとも作者のものとも言い切れない複層的な話者が置かれている。このような語りは、作者が作者として物語に口を出すようなメタフィクショナルな語りとは異なる。メタフィクションが己の虚構性を読者に強調するのとは全く対照的に、こうのは「語りの位相の混交を利用して、作品のメッセージをときに現実へと連接させている」。さらに中田は、人物や語りだけでなく描画表現による現実と想像の重ね合わせによっても視点が複層化されるとして、いくつもの例を挙げている。
 
 こうした手法の狙いについて、「作者と登場人物の混交によってなりたつこの動的な語りは、物語世界が現実に接続され、また別の世界認識がいつかあらわれるかもしれないということの、希望でもあるのだろう」と中田は述べている。
 この「希望」は、本誌のなかで作者自身や寄稿者たちが述べてきたような「人間やその記憶の間の埋めがたいギャップ」が、いつか救済されるという「希望」でもあるのだと思う。当然それは未来の人間すなわち読者に委ねられているはずだ。つまり、この複層的な視点に加わるようにと、読者もまた誘われているということになるだろう。
 『桜の国』の七波は、こうした役割を担う未来の人間として描かれているようにみえる。つまり、彼女が過去の両親を想像するとき、彼女はまさに未来の人間として、内在化された「外側の視点」に加わっているのではないか。「そして確かにこのふたりを選んで生まれてこようと決めたのだ」という彼女のモノローグは、他者たちの記憶を救済し、新しい仕方で世界を認識することへの希望を体現しているのではないか。以上が、本誌を読むことでこうの作品について自分が新たに抱いた感想である。

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