「論」としてみると少し物足りないが、入門書としては優れもの:『アンドレ・バザン:映画を信じた男』

 同時代の映画批評界の情勢とバザンの立ち位置を解説しながら、ウェルズやロッセリーニらの具体的な作品にバザンがどのように向き合っていったかを丁寧に辿っていく。それによって、バザンのリアリズム論のあらましとその展開過程が、具体的な彼の作品分析に即して理解できるという、優れた入門書である。
 
 第1章では、オーソン・ウェルズの『市民ケーン』について、公開当時のフランスではサルトルやサドゥールらによる否定論が主流だったことが述べられる。両者による批判を紹介したあと、著者はその背景に、サイレント映画を観て育った世代を中心とする「トーキー映画への根強い不信」があると指摘する。
 これに対し、「新世代」であるバザンはどのように『市民ケーン』を擁護したのか。「オーソン・ウェルズの功績は自らの目的に必要な映画的言語の革命をなし遂げたことにある」とバザンは主張する。「映画的言語の革命」とは、グリフィス的なモンタージュの否定であり、ディープフォーカスのフィックス撮影によるワンショット・ワンシーンである。
 こうした技法は、映画の発明の根源にあった「現実の完全な再現」という人びとの「完全映画の夢」を思い出させるものだという。その「現実」とは、曖昧さ(多義性)を内包したものである。この点において、バザンのリアリズム論は「実存は本質に先立つ」という実存主義の教義とも重なるものだ、という著者の指摘はなかなか興味深い。
 
 第2章では、イタリアン・ネオレアリズモの代表的監督ロッセリーニの作品評を中心に追いかけながら、バザンのリアリズム論が深化し、作家主義とリアリズムが結合していく過程をみる。
 ロッセリーニの映画には、ウェルズのような撮影技法上の革新はない。かわりに、「複雑で独創的な物語の美学」に特色がある、という。それはまず、シークエンス間の因果関係を示すあからさまな説明が不在であり、意味を創り出す作業は観客に委ねられている点である。
 また、バザンによれば、ロッセリーニにおける映画的物語の最小の単位は、現実を分析する抽象的な観点である「ショット」ではなく「事実」である。どういうことか。バザン自身による例がとてもわかりやすい。死刑囚の独房に執行人がやってくるシーンを撮るとする。ふつうの作り手ならば、ドアノブがゆっくりと回るクロースアップ・ショットを入れたくなるだろう。しかし、ロッセリーニならば、どの部分の具体的特徴もありありとわかる一枚の扉という「事実=映像」で済ませるはずだ、という。
 すなわち、ロッセリーニが映画の最小単位とする「事実=映像」とは、それ自体「ある不可分な全体」なのである。それは、どの部分も等しく強調されているような稠密なショットであり、したがって「複雑で曖昧な生の現実の断片」である。
 こうして「曖昧さ」「稠密さ」といった鍵概念によって、バザンは、ウェルズとロッセリーニを同じ地平で論じてみせた。バザンにとってリアリズムは、対象をどのように把握し写し撮るかという点に関わる。その選択をつうじて、作家は自分が世界とのあいだに樹立する関係を明確に示すのである。
 すなわち、写真や映画は当然だが現実の全てを通過させるわけではなく、取捨選択がともなう。そこにおいて、作家主義とリアリズムの結合が見いだされる。すなわち、その結合とは、現実からの取捨選択を、作家の理性や情熱や信条ではなく、「作家の意識の全体」によって行うことで起こるものである。そのようにして映画は、ひとりの芸術家を通して見られた現実となる。
 
 第3章では、こうしたリアリズムがはらむ「残酷さ」を、シュトロハイム監督作品の批評から明らかにしていく。バザンが映画史に対して、サイレント期/トーキー期ではなく、「グリフィス的モンタージュとそれに対する反動、革新」という見方をもっていた点を、彼の独自性として著者は指摘している。すなわち、省略法と象徴表現に対する、誇張法と現実による「具体的なるものの革命」である。
 こうした「具体的なるもの」は時として「残酷」にならざるを得ないという。その残酷さは、①画面そのものの耐えがたいまでの生々しさ、また②同一空間に同時に起こる複数の出来事をその肉体的、物理的な相互依存の様態において表現すること、によってもたらされるという。
 こうしてバザンによって、「出来事の本質的部分が、アクションの2つ、ないしそれ以上の要素の同時的共存に左右されるとき、モンタージュは禁じられる」という有名な原則が導き出される。
 こうした「残酷さ」の映画においては、子供や動物が特権的な対象とされることが多いという。なぜなら彼らはコントロール不能な存在だからだ。というより、彼らを可能なかぎりコントロールしないで撮る「倫理」を貫き通せ、ということである。それにより、人間の想像に基づく意味の押しつけを超えて、ただそこに存在する「現実」の顕現が果たされる。それこそは、映画の「魂なき眼」に最もふさわしい対象なのである。
 本章の終わりにおける著者の言葉に同意したい。「このような世界と映画への信仰を、『バザン主義』と呼びたい。…/…瞠目すべき作品には、子どもや動物に関わるもの、そして『シーンの空間的同一性』や『非モンタージュ』といった要素によって際立つ『残酷』な作品がいかに多いことか」
 
 
 以降の章については紹介を省略するが、やや踏み込み不足に感じられた。とくに応用編にあたる最後の2章は、バザンの映画論の視点から台湾映画と宮崎駿をとりあげたものだが、どうも物足りなかった。
 第5章は台湾の映画作品の紹介に紙幅が費やされており、結論部も、バザンの映画批評には旧世代からのトーキー映画の擁護という側面があったのに対し、一見するとバザン的リアリズムに忠実にみえる台湾映画は、むしろセリフを極端に切り詰めることでサイレント映画に近づいているという指摘にとどまっている。最終章では、宮崎駿によるアニメーション作品のとくに飛翔シーンにおいて、空間の描き方にバザン的なものが見出されるが、全てが人間の手になるアニメーション作品にはドキュメンタルな偶然性が入り込む余地がないという程度で、あまり斬新な指摘には思えない。
 なので、このラスト2章に期待する向きにはオススメしかねる。また、本書が著者自身のバザン論を詳しく展開したものではないことは言っておくべきだろう。しかし、『映画とは何か』にいきなりチャレンジする前にワンクッション欲しいという、自分のような人には適している。


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