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『あかり。』 ⑨ 家具売り場の二人・相米慎二監督の思い出譚

撮影スタッフが一新された。前作の北海道ロケの高名なカメラマンがスケジュールが合わなかったのだ。
それでピンチヒッターに呼ばれたのは、T社のエースだったMさんだった。
Mさんは、僕が一番信頼しているカメラマンで、そのことだけでも半分肩の荷が下りた気がしたものだ。
Mさんは、仏のように優しく穏やかで、腕が良く映画が大好きで、そして大酒飲みである。


この時の出会いが、後に、監督の遺作になってしまった映画『風花』へと糸を紡ぐのだから、巡り合わせやタイミングというものは、人の人生を変えてしまうのだなと思う。
Mさんはこの後、映画カメラマンとして大活躍している。

Mさんも相米慎二監督のことが大好きだった。酒が好きなこともあり、よく一緒に酒を飲んだ。払いはいつも気前のいいMさんであった。
もし、あの時、Tさんのスケジュールが取れて、そのままスタッフが変わらなかったら……。もし、Mさんに忙しいスケジュールを調整してもらえなかったら……。もし、前作がお蔵入りしなかったら……。

いくつもの『if』がすでに
重なりはじめていた。それぞれの人の人生を相米慎二監督が、はからずも動かしはじめていた。
僕は『相米番』として、監督に張りつくようになっていた。

さて、相米番としての最初の仕事は、打ち合わせ前後、監督について赤坂をうろうろすることだった。

その頃、赤坂の裏通りのマンションの一室にあった映画の制作会社のオフィスシロウズが監督の暇つぶしの行き先だった。オフィスシロウズの佐々木史朗さんは僕らにしてみると素晴らしいATG映画をいくつもプロデュースした人で、ある意味、伝説上の人物である。その人の事務所に伺うだけでも光栄だった。

史朗さん…と呼ばせていただく。
史朗さんは、相米監督の囲碁の相手だった。
僕は囲碁の打ち方を知らない。横で見ているだけである。
高尚な世間話をしながら二人が囲碁を打つ。横で白と黒の石が並ぶのをいつもぼんやり見ていた。そこで交わされる会話に耳を傾け、日が暮れるのを待った。監督は日の高いうちにあまり飲まない人だった。
腹が減ったな、と言われれば近所にパンを買いに行き、煙草が切れたら買いに行く。そんな感じだ。                      (ああ、これは付き人のような感じでいればいいのだ)と、解釈してからやるべきことがシンプルに腑に落ちた。

会話の端々に二人が深く信頼しあっているのが伝わってくる。
なぜか、史朗さんは相米作品のプロデューサーはしていない。
ずいぶん経ってから、「なんで監督は史朗さんと映画を作らないのですか?」と尋ねたことがある。※①                    監督は少し真面目な声で、「あんないいひとに迷惑かけるわけにいかないだろう」と言った。
それは、今思うと、すごく重みのある言葉だったように思う。

少しずつコツを掴むようにして、付き人的な日々が始まった。
監督も仕方ないと思ったのか、僕を連れて歩くことを拒まなかった。
元々、来るもの拒まずみたいな雰囲気がある人だった。
人に対する構えが大きいのである。
どこに行くのにも、たいていついて行った。
例えば、床屋。
まだTBS会館があった頃で、その地下にあった店だ。
そこで並んで髪を切る。支払いはいつも監督だった。

オフィスシロウズに集まる人たちと飲みに行く時は、末席に座っている。そんな感じだ。監督が普段どんな人たちと交流しているのかを興味深く見聞きした。監督が「今、オレについてくれてるT社の村本くん」と紹介してくれた。どの方もそう聞くと「おお、そうかい」とばかりに歓迎してくれた。それがとても嬉しかった。

渡された企画を演出コンテにする。これには前回より慎重になった。同じように「描いておいて」と監督に言われたのだ。セリフを反芻し、秒数を計り、前後のニュアンスや間を想像する。尺調整のためのカットを追加して、編集に備える。プランナーも監督の演出をできるだけ考えワンシーンものの企画にしてあった。15秒に30秒。それぞれコンテを切る。


今作のキャストは、中井貴一さんと藤谷美和子さんであった。中井貴一さんは監督の映画『東京上空いらっしゃいませ』と『お引越し』と90年代の相米映画の中心となった俳優である。藤谷さんは正直よくわからなかった。彼女も模索していた時期だったと思う。不思議な人だった。         そして、相米監督に全く臆さない役者だった。


※① 佐々木史郎さんと相米監督は、柄本明さん(俳優・演出家)が、監督した『空がこんなに青いわけがない』という映画を共同でプロデュースしているが、プロデューサーと監督としては組んでいない。



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