『あかり。』#15 羽田空港にて・相米慎二監督の思い出譚
羽田空港でロケをした。
どんな内容でもそうだが、空港でロケ撮影をするのは大変だ。
限られた時間、制約、その他いろいろなことがのしかかる。
今回は、出張に出る夫を見送るために、妻が運転して送っていく、空港でのドタバタを描く内容だった。
カメラマンがSさんに変わった。
グラフィック系の大御所で、透明感のある映像を撮るひとだ。僕はこの人のトーンが好きだったが、自分では背伸びした感じになってしまうのでお願いしたことはそれまでなかった。
なんで、毎回カメラマンが変わるのかというと、広告代理店の意向だったと思う。
普通、シリーズ広告は同じスタッフで撮るものだけど、なにか変化をつけたかったのかもしれないし、真意はわからない。
それに、皆さん、『相米慎二監督だ』と聞くと積極的に組みたがった。
どんな演出をするのか、それを自分ならどう映像化するのか、相米監督にも自分自身にも興味が湧くのだろう。
Sさんも前作までを見た上で参加するのだから、当然やる気満々で、それがいい方向に出たように思う。
しかし照明部も変わるので、毎回対応する制作部は大変だ。
もちろん、僕も。
この頃になると、個人的には、相米監督とだいぶ打ち解けてきた…と勝手に感じていた。
多分、この頃に制作部のCさんに相談した。それは、簡単に言うと監督と一緒にいる時の支払いのこと。
プロデューサーと一緒の時はいいのだが、二人でどこかに流れるときは、いつも監督が払ってくれていた。その回数が増えれば増えるほど、それがどうにも心苦しくて、相談したのだった。
「いいすよ。とりあえず10万でいいですか?」
と、Cさんは気前よく僕に仮払いを渡してくれた。
「なくなったら言ってください。あ、領収書もらっておいてくださいよ」
と、そんなやりとりで一気に僕の懐は暖かくなった。
まあ、僕のお金じゃないんだけど。
それで、監督が支払ってくれようとするときには
「あの、会社から預かってきてますんで…」と代わりに支払うようになった。
監督はニヤリとして、「まあ、T社は大きいからご馳走になっておくか」と言い、以降それが当たり前になった。
今では考えられないことだろうけど、まだその頃にはそんなおおらかさがあった。
もちろん、その分、仕事で返そうと張り切った。
空港ロケもそんな時期だったのだ。
劇車が一般道を走るとなると一気に大がかりになる。カメラカーで劇車を牽引したり、もちろん走行ルートを決めたり。いろいろある。
相米慎二監督の「ラブホテル」という映画があって、僕は大好きなのだけど、車が走るシーンがとてつもなく素敵だ。主人公はタクシーの運転手で寺田農さんが演じている。
寺田さんも速水典子さんも輝いている屈指のメロドラマの名作だ。
まあ、CMだからら、そこまでの仕掛けはないにしろ、車をきれいに撮る(商品だし)って、なかなか大変なことなのだ。
監督は、そんなことお構いなしに、喜劇を撮るつもりでいるから、そういう広告的なスタンバイやクルマの見え方なんかは、こちらで全部やらなくてはいけない。
そのときの山口智子さんも活きがいい感じだったし、助手席で寝てるだけの竹中さんもとぼけててよかった。
ふたりとも相米演出を楽しむ余裕があった、、、ように見受けられた。
監督の出方がわかれば、あとは俳優は、さらけ出すだけなのだから。
そして、この頃から、あえてカット割を多くして、後で編集で刻むようにした。監督はワンシーン・ワンカットを崩さないけれど、ひたすらアングルを変えて、それをやってもらうようにした。
フィルムは常にたっぷり用意してもらうように撮影部に頼んでいた。
なぜか、監督もそこは割りに素直に対応してくれた。少し信用してくれ始めたのかもしれない。
だからというわけではないが、このバージョンの編集は面白かった。15秒と30秒で違うテイクを使ってみたり、ストップモーションにオフでセリフを被せたり、色んなトライをして、監督に見てもらって、採用になると、広告代理店に見てもらった。
僕は監督が撮った芝居を編集できることが、単純に光栄で楽しかった。芝居の切りどころ(編集点)なんかも、だんだん覚えたのだろう。指示されなくても、仕事を覚えていける環境を作ってくれていたのだと思う。
そして、技術を認めてもらえると、嬉しいものだなと素直に思った。
基本、監督業って言葉がすべてなんだけど、映像を仕上げていくには、それなりに技術が必要だ。
センスだけでいく人は、それはそれでいいかもしれないけど、本数を重ねて身についてくるものだと思う。
僕は、天才型のディレクターではないと自覚していたので、監督のそばにいて学ぶことは多かった。
時期的にも、自分の仕事も抱えていたし、監督ならどうするか、、、を常に自問自答して、試してみる機会が多くあった。
(あとでわかるのだが、これがすごく助かった)
監督のスタイルは真似できないことを身をもって体験し、すこしでも近づけるようにと、もしかしたら、というか、ほぼ空回りしながら日々を送っていた。そこにも学びがあり、葛藤があったけれど、そんな日々も今となってはあまりに懐かしい。
会社でできないコンテをもてあそんでいると、監督からよく電話がはいった。
「なにしてんの?」
「あ、コンテ描いてました」
「いつ終わるのよ」
「あー、、、いま、どちらですか?」
「シロウさんとこにいるから」
「わかりました」
僕は、電話を置くと、そそくさと出かける支度をして、となりのビルにいる制作部を訪ねる。
「Cさん、これから監督と会うんですけど、、ちょっといいですか?」
「あー、了解ですー」
僕はCさんから、また当座の資金を仮受けして、にんまりと心の中で微笑む。
そして、赤坂見附の街におりていく。
だんだんと街が夕闇に包まれる頃、僕は監督や監督の友人たちと一緒にいて、いろんな話を聞かせてもらう。
「じゃあいくとしよう」
「はい」
僕らは連れ立って、どこかの店に探して、路地裏を歩き回る。
「なに食うの?」
「なんにしますか?」
「辛いのにするか、暑いしな」
「はい」
そんなふうにして、毎日が過ぎていった。
大人になった気がして、それもまた嬉しかった。