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悪意は己の内側にある

人の悪意って何だろう?
という、えらく抽象的な話をします。
 
ここ数週間、日本滞在中の日常を書いていました。
仕事から距離を置き、妻女らと離れ、旧友との再会などのイベントを終えると、ひとりで内省的になる時間が訪れます。
私にとっては日本こそ非日常なので、物思いにふけるいい機会となります。
 
人の悪意について考えていました。
月に数回ほど出くわす小さな悪意から、生涯に数回ほどの大きな悪意まで、この世は人の悪意に満ちている。
 
映画評論家の淀川長治さん(故人)は言いました。

「私は嫌いな人に会ったことがない」

淀川長治

いやいや・・・(苦笑)
そんなことが言える人に、私は会ったことがないっちゅーの。
この人は、人を超えた人、いわゆる “超人” なんだろうか。
 
ふつうの人の話をしましょうね。
ある程度年齢を重ねた人なら、明確な悪意をもった人によってとんでもない目に遭わされた経験の一つや二つくらいあると思うんですよ。
私には、人生を変えられるほどの強烈なやつが少なくとも 2回ありました。
世の中にはとんでもなく意地悪な人間がいるものだ、と思い知らされたものです。
 
抽象的なレベルのまま話を進めます。
人の悪意によってひどい目に遭ったとき、私はその人の悪意を確かめただろうか、とふと思いましてね。
何もアクションとらなかったよね。
自分の身を守る行動くらいは起こしましたよ。でも、反撃などしなかったし、抗議するとか話し合うこともしませんでした。
 
それでなんで悪意だってわかるの?って話ですよ。
 
その人が起こした行動の目的を、私は知らないままなんですね。
私を苦しめるため? 蹴落とすため? 社会から抹殺するため?
どれもこれも私の勝手な解釈でしかない。
真の目的はまったく違うものだったかもしれないのです。
自分を守るためだったかもしれない。
幸せになるためだったかもしれない。
正義を貫くためだったかもしれない。
 
そこに悪意はなかったのではないか。


誰かにひどい目に遭わされた経験を思い出してみてください。
そのときあなたは、その人と話し合いましたか?
その人の本当の理由や目的を知ろうとしましたか?
 


他人の真意などというものは、つかみどころがないものですね。
無理に知ろうとする必要もないのかもしれません。
また、無理に悪意に仕立てる必要もないかな、と思ったんですよ。
 
今回の旅@日本のなかで、気づいたんだよね。
人の悪意という幻想を作り出しているのは自分自身だってことに。
 
ひどい目に遭わされると、なぜ私がこんなことをされなければならないの?と唖然とします。そして、その「なぜ?」を理解しようとして、あれこれ思考を巡らせる。いろいろ考えた結果、往々にして「その人は私に対して悪い感情をもち、私に害を加えたかったのだ」という結論に行き着きがちです。
 
でも、人って言うほど他人の生活や人生に関心がないんだよね。
嫌いな人に害を加えたいとかより、自分自身の安泰や幸福のほうがはるかに重要な関心事でしょう。
そのために起こす行動があなたに害を与えることはあるかもしれませんね。
しかし、そこに悪意は(あなたが思うほど)ないのだと思います。



人の悪意とは、私が頭のなかで作り出したもの。
私はそれを打ち消すことにします。
いつか「私は人の悪意に遭ったことがない」と言えるように。
 
「それではみなさん、サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」