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パッションを仕事にした男

この週末、Tさんが会いに来た。
Tさんは、当社の部材サプライヤー(日本企業)に勤務していた 20代男子である。
昨年、日本に出張したときに商談で会い、飲んだりもした。
その後、彼は会社を辞め、ベルギーリーグのサッカーチームに転職した、と風の便りに聞いていた。
Tさんは、ベルギーからここスイスまでわざわざ会いに来てくれた。

それほどお付き合いがあったわけではない。歳の離れた私なんかに会いたくなった理由はわからない。日本語が恋しくなったのか、ヨーロッパで日本人人脈を作りたくなったのだろうか。

とりあえず近況をきく。
「ベルギーにいるという話は聞いてましたが、まさかサッカー選手になったわけじゃないですよね」
「ハハハ!違いますよ。クラブチームのマネジメントの仕事です」

サッカーに詳しくない私でもだいたい想像はできる。
ヨーロッパのフットボールはビッグマネーが動く世界だ。今やヨーロッパや南米だけでなく、中東、アジア、そしてアメリカまでがサッカービジネスを加熱させている。
放映権やスポンサーシップ営業、スタジアム運営やプレイヤーの獲得など、裏方の仕事はいろいろあるのだろう。

Tさんは、今の仕事やフットボール業界のことなどを情熱的に話した。
私は自分の仕事の話はしないでおいた。辞めた業界の話など彼は興味ないだろうし、それより彼の情熱の源をもっと知りたかった。

「転職して大正解だったみたいですね^^」
「そうなんです。去年お会いしたときにいろんな話を聞いてくださいましたよね」
はて・・・。どんな話したっけ。
「僕は会社の不満をたくさんお話ししました」
「ああ。日本の会社クソ、みたいな話?」
「そうですそうです(笑)そしたら〇〇さんは全部肯定してくれました」
「Tさんの話は全部的を射ていましたから」
「それで、やっぱりクソだったんだなってわかったんですよ。僕は間違ってなかったんだって」

ちょっと待て。
まるで私が背中を押したみたいではないか。

「でも、辞めるとは思いませんでした」
「あのとき〇〇さん、おっしゃいました。『辞めちゃえば?』って」
げえっ・・・言ったかも(汗汗)

「前の会社は日本有数の超優良企業。未練はない?」
「ありません。無駄な仕事ばかりして、パワハラ上司がいて、みんな怖がって誰も正しい意見を言えませんでした。あの会社で働きながら歳をとっていくと思ったらゾッとしました」
「今いくつでしたっけ?」
「28です」

自分が 28だった頃を思い出した。
ポーランドに駐在していた頃か。

Tさん、いい顔してるな、と思った。
迷いがない。現在や将来に対して多少の不安はあるはずなのに、今自分のやっていること、今自分が生きている場所を信じきっているようだ。

「それにしても、Tさんがそんなにフットボール好きだったとは知りませんでした」
Tさんは、大きく息を吸って、遠くを見るような目をした。
「2022年のカタールワールドカップがきっかけでした」
「ああ、あの日本がドイツとスペインに勝ったワールドカップね」
「あのときカタールに行って、スタジアムで試合を観戦したんです」
「ほう」
「日本対ドイツ戦。すごい試合でした。あんなに胸が熱くなったのは生まれて初めてでした。そのとき思ったんです。僕はいったい何をしてるんだろうって。世界にはこんなに熱い場所があるのに、こんなに夢中になれる時間があるのに、僕はなんてつまらない仕事に人生の時間を使っているんだろう。そのとき、ぶわっと涙があふれて・・・日本が勝ってうれしいからなのか、ようやく自分のパッションを見つけた喜びなのか、わかりませんでしたが、このパッションを仕事にすることができたらって思ったんです」

パッションか・・・。
久しぶりに聞く言葉だ。
やっと見つけたパッションに素直に従おうと思ったんだね。
こうして日本はまた一人の有能な人材を失ったわけだが、それはいい。
彼は日本の会社で歳をとっていく人ではなかったのだ。

前の会社で、彼はエース人材だったと思う。
クソどうでもいい仕事と不愉快な組織に耐えて勤め続ければ、いつか誰もが羨む地位と収入を手に入れていた可能性は高い。
しかしそれは彼の欲しいものではなかったし、それまで我慢して時を過ごす気もなかった。
彼は、今をとったのだろう。
己のパッションに身を委ね、人生を差し出すとき。それが今だったのだ。

よかった。
心からそう思った。