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自分の軌跡を辿ったら、あたしらしく生きようと思った

ゆうです。
あたしの生きてきた軌跡について、あらためて振り返りたくなりました。
ちょっと長くなりますが、一緒に辿っていただけたらうれしいです。

1993年(平成 5年)、愛知県知立(ちりゅう)市生まれ。
ごくふつうの中流家庭。父はトヨタの子会社の設計技師。母は専業主婦でした。5歳上の姉がいます。あたしは次女で末っ子です。

小・中学校は、家から徒歩 10~15分の市立学校に通っていました。
どちらかというと地味な、4人からなる女子グループに属していました。
勉強はよくできました。父も母もそこそこ教育熱心で、あたしを学習塾に通わせたり、自ら教えてくれることもありました。
ずっと水泳部でした。
球技、というか団体競技が苦手で、陸上か水泳と思っていたけど、陸上部は派手目なモテ系女子がかたまっていたので、あたしは水泳部にしました。

小中学校時代は、これといって楽しい思い出もないけれど、とくに嫌なこともなかったかな。勉強はできるけど目立たない子だったので、先生もクラスメイトたちもあまり相手にしなかったんだろうね。

中学卒業後、岡崎の県立高校に入りました。男女共学の進学校。
そこでちょっとした挫折を経験した。
その高校では、期末テストの順位が公表されるんだけど、あたしは 400人中 300位台をウロウロしてた。
ああ、上には上がいるのね、って感想を通り越して、あたしって井の中の蛙だったんだと思い知らされた。

高2のとき、好きな人がいたなー。
その人はあまり学校に来なくて、友達は 1人しかいなくて、成績は最下位をキープしてるような人だった。
あの人いつも何やってるんだろうね、って噂になってた。
あたしは知ってた。彼は、中学時代の友達と遊んでたんだ。

帰りの電車で一緒になることがあって、自然に話すようになった。
彼も高校に入ってから挫折感みたいなものを味わったそうで、友達もできなくて、学校を休みがちになっていった。
中学の友達(別の高校)と遊んでるのが楽しい、って言ってた。
彼は、クラスに 1人だけ友達がいた。その人は、留年していて 1つか 2つ年上の人だった。美術系の大学を目指していて、勉強しないでデッサンばかり描いてるような変人だった。

あたしと彼と彼の友達(変人)がクラスで浮いていた。
でもそれが楽しかったんだよね。
文化祭のとき、みんなは演劇やら出店やらで忙しくしてたけど、あたしたちはどのグループにも入っていなかったから、何もやることがなくて。
誰もいない教室で、あたしたち 3人はジュースとお菓子をひろげてダベってた。

あたしは彼のことが好きだった。
彼が学校に来たときは、一緒に帰った。
学校から駅までの坂道をポツリポツリ話しながら歩いたなぁ。

高3になってから、彼は勉強しはじめてさ。
あたしも勉強するようになった。
彼は、あっという間に期末テストで 6位になって、周囲を驚愕させたけど、あたしは当然だと思ってた。

高校卒業後、あたしは愛知県の国立大学に入りました。
文学部人文学科で、英文学、哲学、西洋思想史などを専攻しました。
実家から通える国立大学ってことで、親は喜んでくれましたね。

でも、大学生活はあんまり楽しくなかったな。
同じ高校から入った人は多かったけど、高校時代の友達はいなかったから、大学では孤独だった。
例の彼と彼の友達は東京の大学に行っちゃったし。
実家組と下宿組が分かれていたことも大きかったと思う。県外から来ている人たちとは合わなかった。知立の実家から名古屋のキャンパスに通うあたしと、名古屋で一人暮らししてる自由組は、遊び方が違ってた。

あたしはサークルにも入らなかった。大学に入って浮かれてる人たちを見ていて、シラケてしまったんだと思う。
バイトもほとんどしなかったなー。実家暮らしだからお金はあまり必要ないし、そもそも友達がいなかったからお金を使う機会がなかった。
何しに大学に入ったの?って言われそうだけど、勉強しに入ったんです、って答えちゃうようなイケてない女子学生でした。

就活は人並にやって、愛知県にある自動車部品の会社に就職しました。
父親のコネとかではないよ。でも、お父さんは喜んでくれた。

その会社では、最初に生産の現場に配属された。
自動車の重要な部分を作る、リアルな現場で働いていると、一日が短く感じられた。

その後、人事部に配属されて、従業員の勤務管理とかウェルビーイング制度の履行確認なんかやらされるようになった頃から、何かがおかしくなった。自分のやってることの意味がわからなかったし、基本的にヒマだったんだよね。何もやることがなくてデスクに座っていることが、たまらなく苦痛だった。
軽い鬱が入っていたと思う。このままでは自分がダメになってしまう気がして、スパッと会社を辞めました。1年数ヵ月の社会人生活でした。
両親は、そんな私を咎めることなく、「ゆうが決めたことを尊重するよ」と言ってくれた。それからしばらく引きこもり気味になったけど、それでも両親は温かく見守ってくれていた。あたしがどんな人間になっても、親だけは味方なんだな、って痛感した。

引きこもり中も、小中学校時代の親友とはときどき会っていた。歩ける距離に住んでたから。
彼女は勤めていた会社を辞めて、香港に語学留学することを決めた。
香港は家賃が高くてたいへんだからルームシェアしない?と彼女は言った。あたしは直感的に、面白そうだな、と思った。
愛知県からもまともに出たことのない人間だったけど、香港に住むことは、東京や大阪に住むのと変わらない気がした。

このとき 25歳のあたしは思った。
お勉強はできたけど地味で目立たず、進学校に入ったけど挫折し、国立大学に入ったけど孤独で、大企業に入ったけど 1年ちょっとでギブアップ。
ああそうか。あたしって社会に適応できない人間なんだね。
わかった。こうなったら、とことん人と違うことをしてやろう。

その後のことは、前の記事に書いたとおりです。

ふー。自分の歴史をひと通り書いたらスッキリしました。
こんなに長い自己紹介を読んでくださってありがとうございました。

生きづらいなー、なんて今まで何度も感じてきましたが、望み続けた場所で生きています。
だからあたしは大丈夫。

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