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英語が話せない妻ですが

私の妻は、スイスに 6年、香港に 4年住んでいながら、英語がほとんど話せない。
元妻は 4人とも語学堪能だったので、当時の私は英語が話せない駐妻さんをバカにしていたフシがある。
しかし、まさか自分が英語のできない人と結婚し、その人が現在の、そしておそらく最後の妻になるとは思ってもみなかった。

おかげで今の私は、英語が話せない現妻をバカにしていないし、海外で長く暮らしながら日本語しか話せない人を蔑む気持ちなど 1ミリたりともない。
そのような考えをもっていた当時の自分を大いに恥じている。


今年の 2月から私たちはまたスイスに住んでいる。
かつて 6年住んだまちに舞い戻ってくることにはなんの不安もなかったが、ただ一つだけ厄介な問題があった。

スイスのパミット(居住許可)に関する要件が厳しくなったのである。
ジュネーヴに居住する場合は、フランス語力が必須条件となった。
最初にパミットを申請する際には、フランス語スクールに通うことを証明する書類(前金の支払済証明と語学学校が発行したAttestation)の提出が求められる。
さらに、1年後のパミット更新には、フランス語の試験(A2レベル)の合格証明書の提出が必須となる。試験は、筆記と面接の両方である。

この要件は、雇用主からパミットを与えられている私自身には課されない。
(私はフランス語など一言も話せない)
また、就学年齢である 18歳未満の者も免除される。
つまり、我が家では妻だけがフランス語の試験をパスしなければならないのだ。パスしないと、来年はここに住めなくなる。

スイス政府がこのような規制を導入した事情は想像できる。
移民を排斥したい国内世論の声に応えるため。
特定の国や宗教を排除したいのがホンネだろうが、〇〇〇人や△△△△教の移民にだけ課すわけにはいかないので、すべての外国人に課すことになる。こうして、世界で最も無害で歓迎されるべき日本人にまでくだらない義務が課されることとなった。


英語さえまともに勉強したことのない妻が、フランス語など話せるようになるのだろうか。
この問題が頭の片隅から離れなかったが、私はこの話題には触れないでいる。
パミット申請目的で契約したフランス語スクールにも、彼女は全く通う気がないようだ。

来年のパミット更新時、フランス語試験の合格証明がなくても、日本人ならば大目に見てもらえるのではないか、という甘い考えも私にはある。
最悪、パミットの更新が承認されなかったら・・・
そのときはしかたない。日本に帰るのも悪くない、と私は覚悟してもいる。

もとはといえば 10年前、私の都合で彼女はスイスに住むことになったのだ。
長女をスイスの学校に通わせることになったのも、次女をスイスで出産したのも、激動の香港に移住したのも、そしてまたスイスで暮らすことになったのも、全部ぜんぶ私自身の都合なのだ。
そのうえさらにフランス語を習得せよ、などと言えようか。


夜更かし&朝寝坊の常習犯である私が、今朝はめずらしく早起きした。
中国の取引先とのオンラインミーティングが朝 7時(中国時間は午後 1時)にセットされていたから。
朝の 6時前に起き出て、キッチンに行くと、妻がいた。
次女を学校に送る妻は毎朝早起きだが、それにしても早すぎる、と思った。
妻は、ダイニングテーブルに向かって鉛筆を動かしている。

「おはよう」と言いながら近づいて、ギョッとした。
テーブルの上に、フランス語の教科書と辞書があった。
彼女はノートにフランス語の単語を書いていた。

「へぇ。フラ語やる気になったんや・・・」
私は平静を装って言った。
なんで?という言葉は飲み込んだ。
それを察したかのように彼女は言った。
「試験受けることにしたから」

いや、俺が訊きたいのはそういうことじゃなくて・・・
(誰のために?)

俺のためじゃないよな。
自分のため? スイスに住んでいたいから?
いーや、おまえはそういうヤツじゃないよな。
「かず」と「さと」のためなんだろ?
あの子らをスイスで育てたい。
そのために、自分のせいで日本に帰るわけにはいかない、と。

黙々と勉強している彼女の姿を見ていられなくなった。
「今日は朝から会議やねん。もう始まるわ」
そそくさと自分の部屋に戻った。

会議までまだ 1時間ある。

俺はアイツの学生時代を知らない。
服飾系の学校を出て、服屋の店員になったことくらいしか知らない。
学生時代のアイツは、どんな子だったんだろう。
マジメな子だったのか、ワルい子だったのか。
勉強する子だったのか、しない子だったのか。
友だちは多かったのか、少なかったのか。
男子たちにモテたのか、モテなかったのか。

部屋に隠してあるバーボンを少し口に含んだ。
ゆっくり飲み下したら、泪がぽたぽた落ちた。
がんばれよ。
つぶやいて、パソコンの電源ボタンを押した。