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お金、下から見るか? 横から見るか? 上から見るか?

お金の話は、以前の記事で語り尽くした気がしていました。

私がどういう経緯でお金の不安から自由になったのか、整理してみます。
お金を増やす話ではないですよ。
お金との付き合い方が年齢とともに変遷していった話です。
お金を増やすことよりも、マインドを変えるほうが幸せになれると考える人間ですからね。

下から見ていた 20代

20代のときはやっぱり普通に、お金が欲しかったよね。
安月給だったし、貯金もあんまりなかった。
でも、お金がなくて困るほどではありませんでした。
決して吝嗇ではなかったけれど、ムダ遣いをしなかった。

この「ムダ遣いをしなかった」がポイントだと思うんだよね。
「良かったところ」という意味ではなく。
むしろバッドポイントです。

なぜムダ遣いをしなかったのか。
それは、お金に対する不安と卑屈さがあったからだと思うのです。
不安だから、お金を使うことにビビッてた。
卑屈だから、お金に対していちいち気を遣ってた。
コスパが良いからという理由で、ついつい同じ定食屋に足が向いてた。
欲しいゲームソフトが 1万円以上したら、ちょっと手が出なかった。
スーパーで 470円のカマンベールと 600円のカマンベールがあったら、470円のを買ってた。

こういう生き方って心楽しくないわけです。
お金が「主」で、私が「従」になってる。
「お金を使っている」というより、「お金に使われちゃってる」。

「お金が欲しい」と下から見上げちゃってるでしょ?
お金は上から私を見下ろしている。なんなら見下している。
そういう態度でいると、お金にコキ使われてしまいます。

私は、池波正太郎が描く『剣客商売』の秋山小兵衛に憧れていました。

大金をつかんでも、たちまちこれを散らし、悠々として、小判の奴どもをあごで使っていなさるわえ(『剣客商売』より)

秋山小兵衛、あるいは池波正太郎その人の境地は、当時の私には見えないくらい遠く、「小判の奴どもをあごで使う」感覚もイマイチわかっていなかったけど、お金との関係を変えなければならないと思った 20代でした。

横から見ていた 30代

5回結婚(4回離婚)してると(自称 5勝 4敗、他称 1勝 4敗)、慰謝料がたいへんでしょうね、とおっしゃる方がいます。
芸能ニュースの見過ぎだっての。
私は毎回ハッピー離婚なので、弁護士も家庭裁判所も慰謝料も無縁です。
財産分与すらない。
相手がバリバリ系ばかりなんだよね。
元妻のキャリア自慢とか、自虐にもほどがあるだろって話だけど、例えば、一人目の妻は東大卒のエコノミストで、当時海外駐在員だった私より稼いでたっぽい。

莫大なお金が必要になるのは子の養育費です。
私は子供がいなかったから(いたら離婚してないです)養育費はなし。
なので、離婚にかかった費用は、精神的コスト含めてゼロ。

さて、ひとつの転機はルクセンブルクから日本に帰国した 30代のとき。
ふと、気づいたんだよね。お金あんまり使ってないなって。
ヨーロッパ人の生き方に影響されると、ホントお金を使わなくなるのね。
例えば、週末は街に出ずに川沿いをサイクリングしたりするようになる。

俺、何のために働いてお金稼いでるんだろって思った。
早期退職して遊んで暮らすため? いやいやそんな気はない。
老後の生活資金? いや老後にそんなお金使わないだろ。
じゃあ、いつ使うの?

今でしょ!

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それから、金遣いがゆる~くなりました。

そしたら、「お金が欲しい」が消えた。
お金に無欲になったら、お金と対等になった気がした。
上下関係のない友達感覚。
収支とか全然気にしなくなった。増えるのも減るのも興味なし。

そんな頃に出会ったのがレイコだったんだ。

もうね、神様の気まぐれって神レベルだと思った。
このタイミングでこんな女遣わすか、と。
最高なのか最悪なのかわからないよ。けど、どっちかだ。中間はない。

刹那的だった。過去も未来も頭から消えていた。今だけを生きてた。
ただ、お金と対等ってのは、お金を使ってる感覚じゃなかったんだよね。
入ってきたり出ていったりしてるだけ。関係がカジュアルすぎるのよ。
お金に使われてる感じはしなくなったけど、秋山小兵衛はこれじゃない。

「あんたとは住む世界が違いすぎるわ」
と言ったレイコは、私をどこかおかしいと感じていたんだろうなあ。
宇宙一刹那的な女だと思っていたけど、彼女は私が思うより現実を生きていたんだね。

上から見ている 40代

その後、父が天寿を全うして、遺産が転がり込んできた。
バツがつくたびに戸籍ロンダリングしていた私は、遺産相続専門の弁護士から、「息子さんの過去を追跡するのにさんざん手こずりましたよ(怒)」と嫌味を言われた。
さらにその後、4つ目のバツがついて、それを見ずに死んだ親父は幸せだったのかなと思いました。

2011年 3月 11日、東日本大震災発生。
株価が大暴落しました。

その頃にはもう何かを悟り始めてたよね。
親父の遺産も、震災によるキャピタルロスも、それまで入ったり出たりしてきたお金とはケタが違うわけですよ。
どちらも自分の力が及ばない領域で。

くだらね、と思った。
お金が欲しい、と下から見ていた20代も。
お金と対等になれたと思っていた30代も。

ただの数字なんだよね。お金って。
人というものは、ただの数字を求めてその動きに一喜一憂するものなのだろうか。
んなアホな、と思ったら、目が覚めたような気がしました。

そして 40歳を目前にしたとき、私の子供を授かった人がいた。
私はその人と、5回目にして最後の結婚をすることにしました。

なんかいろいろ迷いがなくなってた。お金に関してもね。
40歳という人生の折り返し地点だったからか。
その歳にして、初めて子供を授かったからか。
ようやく最後の伴侶を得たと確信したからか。

お金というのは、やっぱり “使う” ものだ。
使われるものではないし、なんとなく出ていくものでもない。
私がお金を使うからには、そこには私の意志があり意味があるってことです。
470円のカマンベールと 600円のカマンベール。
私が好きなほうを買えばいいんだよね。
大好きなやつなら 2,000円のカマンベールでも買っていいんだよね。
最愛の妻女が喜んでくれるなら、最高の夏休みを企画すればいいんだよね。
部下たちの働きに感謝したいなら、ドーンと大盤振舞すりゃいいんだよね。

お金なんて、アゴで使ってやればいいんだよ。
私が「主」で、お金が「従」。

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