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なぜマホメド・アライ・Jr.は、刃牙に瞬殺さたのか? ~刃牙シリーズ第2部『バキ』を貫くテーマについて~

「殺ラレズニ殺ル」

そう言ってマホメド・アライJr.は刃牙に瞬殺された。彼は刃牙シリーズの第2部『バキ』の大擂台賽編から登場し、作中の強豪である愚地独歩、渋川剛気をあっさりKOして天才をアピールし、その後敗北の苦い味を知ってさらに勝負強くなり、刃牙と対峙した。その際の下馬評は、作中の強豪たちをしてアライ優勢に傾いていた。しかしいざ対決してみると、地下闘技場チャンピオン・刃牙にあっけなく負けてしまう。
その後シリーズは第3部・第4部・第5部と続いていくが、アライ自身は第3部にちらっと登場しただけで、モデルがモハメド・アリ(の息子)という恵まれたバックボーンも活かせず、ほとんど忘れられたキャラクターになってしまう。烈海王のボクシング編にすら未登場だ。噛ませ犬にするにしたってもう少しやり方があっただろうと当時の筆者は思ったものだが、今から考えてみると、アライJr.の瞬殺劇には(刃牙のパワーアップを印象付ける以外にも)ちゃんとした理由があって、それは刃牙シリーズ第2部『バキ』を貫くテーマと密接に関わっていると思うのだ。今回はそのことについて書きたいと思う。 

蹴散らされる不良たち

この刃牙の言葉が第2部のテーマそのものだと思う

『バキ』序盤、刃牙は4人の不良たちと闘う。不良たちは全員武器持ちだが所詮は素人で、地下闘技場で激闘を繰り広げた者たち(鎬昂昇風に言うなら“正戦士”)とは比べるべくもない。それでも我流で磨き上げた武器術の遣い手には違いなく、ナイフやら分銅鎖やらを手にして在野ではそれなりの功名があるようだった。この4人、1人を除いて刃牙に軽くあしらわれてしまうのだが(残りの1人はスペックの狂気に当てられて小便漏らす役回り)、その中の一人に刃牙がこう語りかけるシーンがある。

「人間ぶった切る度胸はあっても、顔面潰される覚悟はねぇか」と。

鉈で刃牙に斬りかかろうとしたそいつは、自分の顔面を潰されるイメージを刃牙に見せられて怖気づいた。上の台詞はその時に放たれたものだ。筆者は『バキ』を貫くテーマはこの刃牙の言葉の中にあると考える。「人間ぶった切る度胸はあっても、顔面潰される覚悟はねぇか」とは、要するに“殺してもいいけど、逆にお前が殺されても文句言うなよ?”ということであり、刃牙と相対した不良たちには決定的にその覚悟がなかった。

蹴散らされる闘技場正戦士たち

前作とは全く価値観の異なる最凶死刑囚たちに遅れをとる闘技場正戦士たち

『バキ』は刃牙世界において武器が解禁され、さらに死刑囚を登場させることで殺人という行為を扱った作品だ。第1部のメインテーマであった闘争や素手による格闘とはがらりと変わった趣向であり、野良試合(ほぼ喧嘩)の形式で戦闘が始まることや、道具の使用などにより、バトルにさらなる自由度が加わった。ただし、それで戦いの内容が充実するかどうかはまた別の話だ。お互いが向かい合い、手の内を見せ、或いは隠し、根限り力比べをした第1部に比べて、第2部では何が飛び出るか分からない怖さはあるが、煎じ詰めて言えば手段はどうあれ相手を殺せばいいのであり、不意打ちだろうが何だろうが最後に立っていた者が勝者だという理屈なため、意外と戦闘自体が淡白であっけなく終わることも多かった。

そして、この手段はどうあれ最後に立っていた者が勝者、という考え方を体現していたのが5人の最凶死刑囚なのだ。「よーいドンでしか走れぬ者は格闘技者とは呼ばぬ」とシコルスキーは挑発し、ドイルは“襟にカミソリ”の罠にかかったロブ・ロビンソンに対して「しょせんスポーツだな」と首を掻っ切った後に吐き捨てた。

彼らは殺すことに目を向けた場合に、闘技者たちが如何にまどろっこしい段取りを踏んでいるかをあざ笑う。克己はドリアンにボコられた後、ドイルによって粉塵爆破を喰らい、独歩は腕を斬られたり顔面を爆破されたりする。老練な渋川剛気ですら柳龍光に後れを取っている。結局格闘技なんて意味がないものなのか?試合という形式やルール、審判や武舞台という御膳立てがなければ力を発揮できないものなのか?

いや、そうではない。確かに闘技場正戦士たちは不慣れにより不覚は取ったが、最終的に立っている者が勝ちという理屈なら、一度の敗北は敗北ではない。立ち上がって再び相手を殺しに行けば良い。愚地独歩はこの理屈を掲げるドイルに対して「カッコ悪ィんだよおめぇさんはよォ。いっつもいっつもォ」と切り捨てたが、敵前逃亡しようが、相手にボコられようが、この理屈に乗っかっている限りはまだ戦闘継続中なのだ。

そして、この段になって『バキ』の世界観は登場人物たちに問いかける。“お前、死ぬ覚悟はできているのかい?”と。

 

蹴散らされる最凶死刑囚たち

シリーズが進むにつれ、ボロカスにされる最凶死刑囚たち

最凶死刑囚編で一番最初に結果を出した闘技場正戦士は誰か?それはvsスペックで作中ベストバウトと名高い激闘を繰り広げ、勝利を収めた漢・花山薫だ。花山の戦闘スタイルは周知の通り、圧倒的なタフネスに任せて一切防御せず、自慢の超握力で固めた拳を叩きつけるというシンプルなものだ。この時まだ19歳だが、藤木組系暴力団花山組の組長を務めている所謂ヤクザであり、斬った張った、殺った殺られたの世界に身を置くキャラクターだ。

上で述べた理屈に当てはめれば、花山が最初に結果を出したのも頷ける。格闘技未経験で、しかも堅気ではない花山の戦闘倫理は他のキャラクターとは一線を画している。彼は勝敗にこだわったりはしないのだ。そりゃ花山だって勝てれば嬉しいだろうが、勝ちにこだわるあまり技術を習得したり、策を講じたりするのは彼にとって“女々しい”行為であり、“素手喧嘩(ゴロメンツ)”を信条とする者としては唾棄すべき振る舞いなのだろう。素手喧嘩とは要するに意地のツッパリ合いであり、勝敗云々よりもその時の喧嘩で正々堂々全力を出し切るかどうかが彼にとっては大切なことなのだ。
彼はヤクザとして何人もの命を奪っているだろうが(実際敵対していた組の事務所を丸々壊滅させてたりする。しかも素手で)、死線をくぐっているからなのか少なくとも自分が死ぬことを恐れてはいない。花山は口内で銃弾が炸裂しても、閃光弾を至近距離で浴びせられても、膝頭を拳銃で撃ち抜かれても、反射的な反応は見せこそすれ、精神的に怯みはしなかった。その喧嘩の後、自分の人生がどうなるかなど度外視だ。彼は人間をぶん殴る度胸があり、且つ顔面潰される覚悟を常に持っている人間なのだ。

そしてスペックを含む最凶死刑囚たちにはなかった。「敗北を知りたい」と言いつつも、彼らは負けそうになると逃走する。実力で敵わないと見るや不意を突くことに精出し始める。結局、方向性は違えどやっていることは彼らが馬鹿にしている格闘技者と同じなのだ。彼らだって「ヤラレズニヤリタイ」のであり、顔面潰される覚悟はなかったのである。メッキが剥がれてからの彼らの凋落ぶりといったら、見ていて痛々しいほどだ。これまでの人生が無意味なものだったと悟ったドリアンは幼児退行し、自信が剥げ落ちたスペックは一気に老けこみ、ドイルは何故か敵対していた克己と仲良くなった挙句に盲目になり、シコルスキーと柳龍光は刃牙に二人まとめてボコボコにされる。醜態を晒した彼らは静かに物語からフェードアウトする。

蹴散らされるマホメド・アライJr.

ここに至ってマホメド・アライJr.はどうかと振り返ってみると、やはり彼にはその覚悟も度胸もなかったと言うべきだろう。

父親から受け継いだファイト・スタイルを拳法に昇華させ、あり余る才能で古豪たちをノックダウンさせた彼だが、優秀であるが故に先を見てしまう。彼は砕かれた拳を気にして愚地独歩の顔面を振り抜けなかった。激痛と、あとこの先一生ファイト出来なくなる可能性があったからだ。怪我をしているからと言って父親とのファイトに怯んでしまった。負けるかもしれなかったからだ。さらに最悪なのは、彼が梢との将来を希望してしまったことだ。アライJr.が最初に敗北したのは“明日を捨てた”ジャック・ハンマーだった。
結局、自分の命を差し出せない奴に、他人の命なんか奪えないのだ。

「ヤラレズニヤル」というのは普通の格闘技の価値観では正しいのかもしれないが、こと刃牙世界においては通用しない考え方なのだった。どんなに才能があっても、どんなに不意打ちに長けていても、どんなに戦略的に優れていようとも、覚悟がない奴は土俵にすら立たせてもらえない。刃牙やジャック・ハンマー、花山薫には覚悟があった。そして、最凶死刑囚やマホメド・アライJr.にはそれがなかった。俺の命を奪うのはいい、ただしお前の命も差し出せ。それではじめて対等だ。『バキ』を貫くテーマというのは序盤から示されていて、その思想に反するアライJr.の敗北は必然だった、ということが今回言いたかったわけです。

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