遠く、遠くに居た。  

身体と心は遠く離れ、身体はあの仄暗いアパートメントに。心は一面白い砂に囲まれた大地に。風は少しも吹いていない。外部からの音はなにも聞こえない。わたしの呼吸音。心音。瞼を閉じるたび僅かにふっと鳴る音。足元にも影は見えない。昼なのか夜なのかさえ分からない。喉が乾く。それも、強烈に。がさがさに乾燥したへちまのように。水が飲める場所を探す。池や、沼や、海だ。しかし、そんなものはない。ここには白い砂しかない。わたしはぺたんとじべたに座る。呼吸の数を数える。そのくらいしかやることがない。  

ひとつ、ふたつ、みっつ…。  

身体だけになったわたしは、アパートメントでラジオを聞いている。金曜日の夜。時刻は夜の1時16分。枕元の小さな灯りだけをつけて、ベッドに横になっている。毛布を頭のてっぺんまで被り、瞼を閉じて耳を澄ます。頭の中のノートに、黒くて細いインクでぐるぐると◯を描く。何個も。何個も。意識的に。或いは無意識に。わたしのスペースを全て埋めるつもりで。◯と◯は重なりあい、そのうちに黒い模様が出来る。白かったノートはだんだんと黒くなる。頭の中でぎしぎしと音が鳴る。  

ひゃくにじゅうに、ひゃくにじゅうさん、ひゃくにじゅうよん、ひゃくにじゅうご…。  

呼吸は止まらない。息を吸うたびに、吐くたびに、喉の渇きが増していく。耐。苦しい表情を浮かべたが、意味がないのでやめる。誰も見ていないからだ。気づくと、あたりにマンホール大ほどの黒い●が点々と出来ている。近くで見て確認したいが、もう立ちあがるだけの体力が残っていない。●は次々に、規則的に、増えていく。影とは違う。もっと深刻な黒だ。冷たくて、硬い黒だ。それは、わたしのまわりにだけ増えている。遠く離れた場所には白い砂が見えている。●と●は重なりあい、そのうち黒い長方形になった。その中心部にわたしはいた。わたしはそこで横になった。冷たくはなかった。  

ここが世界の底かもしれない。暗く狭い井戸の底。遠くに白い砂は見えるのに、わたしはそこまで行けない。行くことを考えもしない。何故ならここがわたしだからだ。


#詩

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