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年をとることが怖い

お酒が飲めなくなった。健康診断の結果を見ると気付けば尿酸値やら肝臓やらの数値がとんでもないことになっているのだ。そもそもそんなにお酒を飲む方ではないはずだ。おそらく日頃の生活習慣が原因だと私は思っている。つまり、ろくに動かずに椅子に座って日がな一日書類仕事をしているからではないか。となると、こんな仕事やめちまえと思うのも当然なのではないか。おそらく労働とは時間の切り売りだろうが、このように悪い生活習慣の種になっているのであれば、なおのこと可及的速やかに改善しなければ、ただでさえ短めの生命をさらに犠牲にしてしまうことになっている。さして大した業績にもならないのに。

大きな業績の前には生命を犠牲にして仕事をするのはわかるから、別に働くということが取り立てて嫌いなわけではない。むしろ好きな方だと自分では思う。誰かの何かの役に立つ、そういう承認欲求は割と普遍的なもので、これを満たしつつ金も稼げてしまうものが労働だと、学生の頃は考えていた。あくまで金銭は二の次で、その会社の事業の内容や商品、サービスが社会の中でどのように評価されているか、がその会社で働く理由になった。だから前職では当該地域の地域交通に貢献する、という面があった。でもそれだけでは生きてはいけないのだと知った。

報酬と会社の今後の事業展開とその中での自分の役割についてフォーカスして転職活動をして今に至っている。なかなか自分本位な考えであったと自省している。だからかもしれないが、会社の方針に心の底から賛同できなかったり、自分の仕事が誇らしく思えないのである。つまりどれだけ働こうが自分の仕事として自分の仕事を感じられない気がするのだ。そうなると私が取れる方法は二つに一つで、まず今の職場でどうにかこうにか社会に貢献している側面を強く見つめてみる。次に今の職場を見限り、生命を犠牲にしてまでもなし得たいことを探し出して取り組む。いずれも容易いことではないだろう。けれどもどこかでは決めないといけない。でないといつまでも時間と肉体の浪費を繰り返すだけなのだ。

例えばクソみたいな事業に従事してたとしても、誰かを養っているとなると安易にやりがいだけで仕事を変えるわけにはいかない。多少辛酸を舐めさせられようがお金で頬を叩かれるような思いをして、家のために稼がなければならない。どんなことにもやりがいが見出せないとしたら、これは一つの解決策かもしれない。だがしかし私には相手がいない、やりようがない。つまり守りたいものがない。

無敵の人という表現が一時期流行ったが、私はそれに近いのかもしれない。捨てるものはもうほとんどない。そもそも得ていないし取りに行ってすらいない。だからなんでもできるしなんにもできないんだと、多少気楽に構えて、なんだかんだ明日もちゃんと働きます。

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