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言いたいことが言えない僕たちへ

始発駅に住もう。座って通勤しよう。狭い部屋で窮屈な思いをしながら高い家賃を払うことで、喜ぶのは不動産業者くらいではないだろうか。広い部屋でふんだんに陽のひかりを浴びて生活し、家賃も抑えつつゆっくり座って優雅に通勤するのだ。多少時間がかかるとはいえ、結局会社の隣に住むわけでもなければ会社も引越することを考えると通勤時間はかからないことないのだから、多かれ少なかれなんらかの時間がかかる以上はどんぐり乗せ比べというわけである。

かつて私は渋谷のIT企業に勤めるにあたり、通勤を極力避けるために会社からギリギリ歩いていける池尻大橋駅徒歩5分の位置にアパートを借りて1年半ほど暮らしていたことがある。冒頭に書いた通りの狭い部屋で窮屈な思いをしながら割に合わない家賃を払っていたと思う。それにしては安い家賃で月6万5千円だったから、部屋の環境についてはお察しいただけると大変ありがたい。細かいことを書き出すと本題から遠ざかるのだが、壁が薄いかなんなのか周囲の雑音がよく聞こえてきて、夏の暑い夜に窓を開けていようものなら男女のそれらしき行為の様子が筒抜けだったりしたのも今思えば懐かしい。

これも20代半ばの短い間の楽しい思い出程度にはなっている。ずっと続くわけではないモラトリアム、借り暮らしだと思いながらそれなりに長い時間を過ごした不思議な感覚である。ちなみにあの頃の暮らしに戻ろう、戻りたいという気持ちはまるでない。でもあの頃の全てを否定する気にはならない。あらゆる物事には良い面も悪い面もあるものだとわかるようになってきた。住む場所なんかはものの見方次第で良くも悪くもいずれとも思えるものだと言える。冒頭の主張に反するわけだが、つまるところ住めば都なのだ。

電車に揺られて帰るなかで、その距離が伸びるにつれて聞こえてくる会話も覚えていることも増えていく。最近気のせいかもしれないが大学1,2年生のような若者の会話がよく聞こえてくることが多い。「もう遊べるのも最後なんで」というフレーズをよく耳にしているのだ。働き始めると遊べないことを前提にしているが、果たしてそういうものなのだろうか。大人になって、というよりは特に無意味に年を取っていく中で視点が変わって、こういう既成概念なんて思い込みの産物でしかない、ということに気付かされる瞬間がたまにある。大人になって遊べなくなる、なんてことはなくてどちらかというと大人の方が遊んでいるように見えるし、少なくとも私は働き始めてからの方が行動量が増えている。少ない時間で満足できる工夫もできるようになった、面も否めない。

なぜそうなったかというのは単純な話で、そうしたい意思があったからである。どんな場面でもその未来を決めるのは意思ではないかと改めて強く唱えたいが、見ず知らずの若者に言うにはなかなかお節介な話である。今日も何も言えず電車に揺られ帰ることにする。

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