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健康にこだわって天下を取った男

もうおわかりですね。
健康オタクで長寿だった結果、天下を取ったのは徳川家康です。

▼ 60歳から天下を取った徳川家康

戦国時代は平均寿命60歳程と言われており、戦国三英傑のうち、本能寺の変で志半ばに亡くなった織田信長は49歳(1582年)、織田信長の仇を討ったのち織田家の権力を奪取し天下を取った豊臣秀吉は62歳(1598年)で亡くなっていますが、豊臣秀吉没後に豊臣家から権力を奪取して幕府を作った徳川家康は75歳(1616年)まで生きています。

▼ 寿命や関ケ原の戦いで政敵が相次いでいなくなる

1598年、豊臣秀吉は、後継ぎの豊臣秀頼がわずか 5歳の時に亡くなったため、その時点で最も実力があり信頼もしていた徳川家康や前田利家を後見に頼むしかない状況を作ってしまいました。

豊臣秀吉没後、翌年には前田利家も63歳(1599年)で亡くなってしまい、さらに翌年1600年には豊臣家に対して最も忠誠心のあった石田三成らが関ケ原の戦いで敗北して処刑され、徳川家康が権力を奪取していく様を止める者はいなくなっていきました。
※関ケ原の戦いは、「豊臣vs徳川」という構図ではなく「豊臣秀頼の後見人である、石田三成vs徳川家康 のNo.2 の争い」という構図で、石田三成敗北の原因は人望が無かったからと以前記載しました。

また、関ヶ原で東軍(徳川派)についていたものの、豊臣恩顧でもあった加藤清正らの有力武将も寿命で亡くなっていたため(1611年没)大阪の陣(1614〜1615年)で豊臣家を守る有力武将は真田信繁(=真田幸村の正式名称)くらいでした。

当時26歳の徳川秀忠に早めに将軍職を譲り(1605年)、順調に世代交代を済ませておいたおかげで、大坂の陣(1615年)で豊臣家を滅ぼした翌年(1616年)に後顧の憂いなく徳川家康は亡くなりましたが、徳川幕府は260年ものあいだ続きました。


▼ 最も大事なことは、生き伸びてチャンスを待ったこと

最近の研究では、豊臣家が徳川家に臣従して上下関係が逆転さえすれば、徳川家康は豊臣家を完全に滅ぼすつもりは無さそうだった(最大限譲歩していた)ということがわかっています。しかしそれも、豊臣秀頼の母である淀殿が実力差を顧みずに過去の栄光にすがり徳川の下につくのを最後まで拒んだために、豊臣家は滅ぼされました。

飢饉で食べるものにも困り、生きるか死ぬかの治安の中に生きてきた戦国時代においては、「武士は犬とも言え畜生とも言え勝つことが本にて候」(武士は、犬やら畜生やら言われようが勝つことが最重要。手段は選ばない)と言われるほどのリアリズムが当たり前の価値観でした。
※ 明治期に新渡戸稲造が記した「武士道」とは真逆の価値観です。

徳川家康は、幼少期を人質生活として送り、その後も織田信長と決して対等とは言えない同盟関係を維持し、豊臣秀吉に対しても試合に勝って勝負に負けたような状態で臣従することで、常に生き続けてチャンスを待ち続けました。

最終的に天下を取った徳川家と、最終的に滅びた豊臣家の違いは、屈辱にまみれようが最後まで諦めずに生きることを選んだか、屈辱を拒んである意味安易に戦う道を選んだかの違いでした。


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