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こんばんは。
あ、いや、新年の挨拶をしたようなしていないような…
えっ、もう2月?私の1月どこへ行った?
そもそもnoteに記すのは10月末以来のような気が。

そんな軽いものではありませんでした。私の1月。
個人的に色々と重なった年末年始。
せめて大みそかと元旦ぐらいは心穏やかに、そう願ったのも束の間。
2024.1.1 16:10。
新年はそこで終わりました。
石川県能登地方を震源とするマグニチュード7.6の地震、
「令和6年能登半島地震」と命名された地震は日本海側で発生したものとして近代では最大クラス。
輪島市と志賀町で震度7を観測したほか、ほぼ日本全国で揺れを感じました。私がいた北海道の釧路市でも震度1を観測するほどの大きな地震。
今日2月1日で発災1ヶ月。発災はつい昨日のようにも感じます。
この地震では2月1日時点で240名の尊い命が失われました。
衷心からの哀悼の念を表します。
また、4.8万棟にもおよぶ家屋被害、いまなお4万か所で断水が続いています。避難所には1.4万人の方が避難を続けています。
震災をうけられたすべての皆さんにお見舞いを申し上げます。

私はかつて、石川県に2年ほど赴任していました。
住まいと勤務先は加賀地方でしたが、少ない休日を能登ドライブに充てては旨い物や風光明媚な景観でリフレッシュしたものです。故に地形や道路網は手に取るように思い出せます…20年くらい経ってますが。
北海道へUターンする半年前にも3日位かけて加賀・能登を巡っています。そんな馴染み深い能登が激しい揺れに見舞われ、津波・火災・土砂崩壊に襲われた…報道で続々と入る情報を前に、おせちや雑煮どころではなくなり断片的ながら情報収集に入りました。

多くの人が休み、帰省や旅行する年末年始。そして元旦。
最も体制が緩んでいるタイミングを不意打ちした地震、ここに初動の難しさが最初の難関として立ちふさがります。
そして、能登の地形が阻む道路網の弱さが救援や応急復旧を困難にした、という難関、電力の復旧遅れが通信網の寸断やテレビ・ラジオ送信の停止にもつながる悪循環。
なにより、普段は高齢化が進んだ地域。生業で集まった集落が散在する能登半島では道路網と通信網の寸断がそのまま安否不詳の不安につながりました。

能登半島では2007年3月25日にもマグニチュード6.9の大きな地震が起こっており、輪島・七尾・穴水で震度6強を観測。
この時すでに関東地方へ異動していましたが、余震と仮復旧が落ち着いた頃合いに能登を訪ねています。能登瓦が輝く大きな家々が揺れに耐えられずに倒壊した姿が記憶に強く焼き付きました。美しい能登の景観を作っていた家屋が災害時には大きなネックになるかもしれない…石川に住んでいた頃の私の懸念がこの時現実になりショックを受けました。
そもそも道産子の私に瓦を積んだ日本家屋の文化への意識はほぼなく、なんでこんなに重たい屋根を?という疑問しかなかったもの。本州生活を重ねる中でその理由を知る訳ですが、地震多発国である日本ではハンデでしかない…当時書いていたブログでそのあたりを何度も書いたものでした。

今回の能登半島地震でも残念なことに相当数の家屋が屋根で潰されるように崩壊しました。2007年地震の比ではないほどに。
もっとも、今回の地震では大きな地殻変動が確認されました。数千年に一度レベルの隆起を起こすほどの地震だったわけで、正直壊れなかった家屋は奇跡的でもあります。
そして2020年から続く群発地震で能登地域の建物や構造物はダメージが蓄積されていたわけで、耐震なんて機能はとっくに効力を失っていたことでしょう。
この家屋などの倒壊が多くの住民の命を奪っているのは事実であり、耐震基準の妥当性が再び議論されることでしょう。このような悲しい被害を繰り返してはいけません。

そして。

災害対策を扱う者として、この能登半島地震はすべての思考を崩してしまったものでした。
直下型と海洋型の2つの地震がいっぺんに起こったかのような地震は、内陸では土砂崩れ(山津波)、海岸には津波が襲い、隆起などの地殻変動がその地で暮らしてきた人たちの明日からの生活を狂わせています。
これまでの災害対策の考え方が通用しない事態が目の前に展開されたのです。救援や復旧の手を阻むかのようなインフラ遮断はこれまでの災害の中でも過酷さが違いました。
これまでの考え方でよいのか?これまで伝えてきたことは間違っていたのではないか?
大好きな能登の変わり果てた姿を直視しながら、何も手が着かない日もありました。

でもね。ここで歩みを止めるわけにはいかないのです。
起きてしまった事は巻き戻したくてもそうはいかない。
能登の姿から、人びとの苦悩から、次の災害で同じ苦しみを出来る限り無くすために徹底的に学ぼう、そう切り替えたのは半月経った頃。
北海道の多くの場所では被害が全く同じではないにせよ、発災後に直面する困難は共通するものがあると考えています。
北海道は能登以上に寒い。全く同じタイミングで人々が家を失うような災害を経験したら、より過酷な状況も考えられるはずです(この記事をタイプしている今、氷点下10度です)。

災害は残念ながら止めることはできません。
でも、災害による被害を最小限に食い止めることはできます。
被害が最小限になり体を動かすことが出来れば、まわりで困っている人を支える側へ参加できます。避難所の運営だって地域でこなすこともできるでしょう。
起こりうる災害を知って、被害を最小限に抑える術を取り入れる。
「市民防災」の源流はここです。
モノの備え、ココロの備え、日頃からのつながり…
私が14年取り組んできたベースの災害対策を改めて地域に広げていく、今こそ力強く進めていくときと考えています。

1月は講演で、旭川市(19日)、釧路市(25日)、池田町(26・27日)へ伺いました。さっそく「市民防災」の考え方を基本にした地域密着の災害対策をご一緒に考える場となりました。
旭川は「被災するイメージが無い」と言われることが多いのですが、だからこそ災害リスクの宝庫でもある北海道各地を支えるチカラがあるともいえます。※もちろんNO災害ではありません!
池田町では行政側の訓練に立ち会わせて頂く場と、町民の皆さんと避難所運営を考える場の2つの機会を頂きました。私が道東地区で進めている行政・住民の協働による災害対策の姿を十勝地区でもお話しできる事が有難いです。

2月もおかげさまで休みなしで走り回ります。行政との協働で企画した訓練も各地で展開していきますし、地域内共助つくりの種まきになるような公園の場も頂いております。
能登の被害を目の当たりにし遠くの事と思わずに災害対策に取り組む地域の皆さんを全力で支えていく事で、能登への思いを示していきます。

能登の皆さんへ今の私にできる事は限られてしまいますが、出来る限り能登をはじめとした石川の産品を手にして食して応援しながら、ひと息つけて訪問者を受け入れてもらえるようになった暁には、和倉の名湯を浴びながら再起に向かう能登の姿をこの目で確かめに行きますね。能登は当地にゆかりのないまま仕事で飛び込んだ私に不断の励ましを与えてくれた地。その恩は忘れることはありません。

あ、そうそう。
年末以降「あいつ見ないなぁ」とあらゆる所で言われているとか、いないとか。関係各位のみなさま、そういうことです。
各種SNSからも離れていましたが、お察しください。
1人苦しみもがきながら(ちょっと違うか)。
何とか私は生きています。ほとんど釧路にはいませんが(笑)


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