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アイルランド抵抗歌 Mairaed Farrell(マイレードファレルのバラード)

Do not stand at my grave and weep,
I am not there I  do not  sleep,
Do not stand  at my grave and cry,
When Ireland  lives  I do not  die.


A woman's place is not at home,
The fight for freedom it still goes on,
I took up my gun until freedoms day,
I pledged to fight for the I.R.A.

In Armagh jail I served my time,
Strip searches were a British crime,
Degraded me but they could not see,
I'd suffer this to see Ireland free.


Gibraltar was the place I died,
McCann and Savage were by my side,
I heard the order so loud and shrill,
Of Thatchers voice, said shoot to kill.


So do not stand at my grave,
I am not there I do not sleep,
Do not stand and my grave and cry,
When Ireland lives I do not die.

マイレードファレルのバラード

私のお墓の前に立たないでください、泣かないでください  私はそこにいません  眠っていません  あぁ、お墓の前に立たないで  泣かないで  アイルランドが生きている限り  私は死なない

女の居場所は 家ではない  自由のための闘いは続いている  私は銃をとる 自由になる日まで  私は誓う  IRAで闘うと

アーマー刑務所で  私の青春を過ごした  脱衣の捜索はイギリスの罪科  私を辱めても、彼らは見つけられない  アイルランドの自由を見るために、私は苦しみを得た

ジブラルタル・ロック  そこで私は死んだ  マッキャンとサベージも私の傍で  私は聞いた  大きくて甲高い命令  サッチャーの声だ 「射殺しろ!」

どうか私のお墓の前に立って泣かないでください  私はそこにいません  眠っていません  あぁ、どうかお墓の前で泣かないで アイルランドが生きている限り  私は死なない


マイレードファレルはIRA暫定派の女性兵士。1988年、ジブラルタルで死んだ。

彼女が生まれたのは1957年、アイルランド北部の都市、ベルファスト。タイタニック号を建造した造船所があることで有名な都市は、北アイルランド紛争の最も激しい闘争の舞台でもある。

元々、アイルランド北部(アルスター地方)はイングランドやスコットランドから移入してきたプロテスタントが多い。一方でアイルランド土着のカトリック信徒は、アイルランド全体では多数派でも、アルスター地方ではマイノリティである。さらにイギリス本国から移入したプロテスタントは貴族やブルジョワ、小ブルジョワである。経済的に圧倒的優位に立つ「よそ者」がアイルランドの土地と産業を掌握し、それをイギリス本国の武力を背景に強行してきたのがアイルランドの歴史である。つまり侵略であり、白人が白人を植民地化し収奪してきた歴史である。イギリスは帝国主義の本家本元だが、その触手は有色人種だけでなく立場の弱い者であれば白人にも容赦なく延びるのである。

日本では信じられないかもしれないが、同じクリスチャンでもカトリックとプロテスタントの宗派争いは根深いものがある。そしてアイルランドは多数派でも経済的、武力的に弱いカトリックをプロテスタントが支配してきた歴史である。当然だがカトリックはプロテスタントを憎む。そしてプロテスタントはカトリックを蔑し、また既得権益を手放すまいと躍起になる。

マイレードファレルが生まれたのは、そんな争いの最中のベルファスト。ベルファストはアルスターで最も栄えた都市だが、カトリックはスラムのような貧しい区画にコミュニティを形成して住んでいた。そしてそのコミュニティからは出ることはない。完全な宗派による隔離がなされていた。そして、時折カトリックコミュニティにイギリス軍の装甲車がやって来て、IRAのアジトを捜索する。怪しいと見たものは予防検束、つまり、令状なしで連行する。そうして故郷の街が蹂躙されていくのを目の当たりにしたマイレードは、14歳でIRAに入隊する。これは当時、IRAの幹部であったボビーストーリー(2020年、64歳で死去)がリクルートしたと言われる。

ほんの子供であった彼女の最初の仕事は、イギリス当局の手入れを潜伏するIRA兵士に報せる、警報センターのような任務であったという。警報はシンプルで、ゴミ箱の金属の蓋をガンガン叩く。当時のニュースを見ると、人々が蓋で地面を叩いている様子が見られる。

長じて、彼女は本格的な戦闘に加わわるようになる。そして1976年に爆弾闘争の過程で逮捕され、アーマー刑務所に服役。この服役中のエピソードが凄まじい。軍事捕虜としての待遇を求め、1歩も引かない獄中闘争を展開する。それは「汚物を捨てない闘争」と言われる、排泄物から経血までを捨てずに溜め込み、壁に塗り付けるというものだ。そんな獄中にて、彼女は20代の大半を過ごす。また彼女は獄中女性兵士団の指揮官的な役割も担っていた。

1986年、彼女は釈放される。釈放されたとき、彼女はジャンヌ・ダルクのように英雄視され、テレビの取材も相次いだ。一時は大学に入るが、すぐにIRAに復帰するため退学する。

この頃、彼女は両親に、軽い調子で「私はそのうちイギリス軍に殺される」と話した。父親は冗談だと思ったのか「葬式は金がかかるんだから、そう簡単に死なれたら困るよ」と笑って返した。彼女は、「葬式ならIRAが面倒を見てくれるから大丈夫よ」と言った。

1988年。マイレードファレルと、男性兵士のダニエルマッキャン、ショーンサーベージの3人は、イギリス領のジブラルタルに駐留するイギリス軍を攻撃する作戦に出撃する。その計画はイギリス諜報機関のMI5がとっくに掴んでいた。彼らは「泳がされ」、そして決行前に全員が特殊部隊SASにより射殺された。そのとき、彼らは非武装の丸腰であった。

なぜ、非武装の彼らを射殺したのか。逮捕しようと思えば出来た状況で、敢えて射殺したことは批判の的になった。これはイギリスのマーガレット・サッチャー政権がIRAに対して実行していた「射殺政策」である。つまり殺すことが前提なのだ。IRAであるというだけで、それは事実上の絶対的法定刑「IRAは射殺」「shot to kill!」を意味する。

マイレードたち3人の葬儀は、彼女の予言通りIRAの世話の元で行われた。その葬儀には多くの人が集まったが、ミルタウン墓地に埋葬する直前、イギリス帰属派のプロテスタントの男、マイケルストーンが乱入し、銃と爆弾で攻撃。会葬者3人が死んだ。さらにその3人の葬儀で、うっかり迷い込んでしまったらしい非番のイギリス兵たちが激昂した会葬者に襲撃され、ボコボコにリンチされた挙句に射殺された。


この曲はまるで日本で流行った「千の風になって」を想起させるが、もちろん千の風になってよりも早くに世に出た曲である。アイルランド、特にカトリックは最後の審判を待つために、遺体を土葬する文化である。つまり最後の審判の日まで、死者は文字通り墓地で「眠る」という死生観だろう。

ところが、この曲では伝統的な死生観に逆らうかのように「私はそこ(墓)にいない、眠っていない。アイルランドが生きている限り、私も生きている」と歌う。

僕は、このIRA戦士とその周辺者、つまりアイルランドの統一とケルト民族の国家樹立を願う人々の死生観に衝撃を受け、また奇妙な懐かしさを感じた。アイルランドの愛国者にとって、祖国と私とは相対の分離したものではなく、一体なのである。

この感覚は日本でも特攻隊などを引き合いに、よく言われている。とくに「愛国的」な人々によって。しかし僕はそんな日本の「愛国者」の感情がかった言葉を信用していない。アイルランドの、まさに祖国と一体に生きて戦い死んだ人々の足跡を学んでしまったからである。

日本には、マイレードファレルのような愛国者は不在である。祖国の真の自由のために戦う者がいるのか。言論や思想戦も結構だが、我が身可愛さの怯懦から言っても仕方ないことを言い続け、最初から権力によってお膳立てされた盤面上をウロウロしているだけでは政治ゴロと呼ばれても仕方あるまい。そして愛国と忠義のマウント合戦をしているうちに己の肉体も祖国も衰退の一途を辿るのだが、別にそれでも構わない、俺が生きている間にちょっと「憂国尽忠の士」として名が売れていい女といい酒と飯にありつければ勝ちだ、なんて心の底で考えている「愛国者」がいるとすれば、唾棄すべき奴である。

アイルランドの、ことにIRAやINLA(アイルランド国民解放軍)の戦士は、比喩でもなんでもなく、本当に祖国と我の区別なんてなかったのだ。「私」と言うべきものは、すなわちアイルランドなのだ。彼らの生きた証は金でも名声でもなく、エリン(いにしえのアイルランドの国名)の緑の大地と、そこに暮らすアイリッシュの笑顔と歌声である。

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