暴力という言葉
問題の解決方法について
「暴力はいけない」
これがすべての大前提として浸透している。
また私たちは普通「問題を話し合いで解決する」ことを至上価値のように、日々教育されている。教育とは学校だけではなく、メディアを通じて「暴力はだめだ、話し合いで」という価値観が常に流布されている。
さて、多くの場面で、他人が絡む問題に直面した時にその解決は示談(話し合い)=非暴力的解決手段の一つ、によって解決が図られている。
当事者同士の示談で和解しなければ、仲介が入るなり裁判に訴えるなり、どちらにしろ非暴力的に解決することがほとんどだ。
では、全ての紛争が話し合い(非暴力)で解決するのか。
紛争の非暴力的解決に必要な要件は何だろう。私は以下の三つを「必要要件」と考える。
1 双方に非暴力的に問題を解決する意思があること
当たり前のことだ。
2 話し合いで合意した事項が確実に履行されること
これが守られない事例は多いと思う。裁判であれば執行という形で担保
されるが、個人同士の話し合いでは、合意事項は口約束に過ぎない場合が
多い。例えば学校のイジメ問題。教師の仲介で加害者側に何らかの制限を
かけたとして、それが守られるどころか、一層エスカレートする事例はよ
く見られる。
3 不平等な合意の強制がないこと
これも多い。そもそも当事者の力が均衡していない状態での仲介なしの
話し合いはそれ自体が見えない暴力となる。
例えば暴力団と一市民が話し合いをすれば、どうなるか。
私は、これらの要件を満たさないのであれば、暴力による解決又は泣き寝入りしかないと考えている。
暴力とは、つまり有形無形の力による一定の行為の強要である。
社会を動かした力は何か
過去を振り返る。
人々の生活に大きな影響を及ぼすような政変は、暴力によってもたらされた。明治維新はまさにそうだし、戦後のGHQ統治も軍事力を背景にした暴力によって日本を「民主化」したのだった。
また権力の横暴に対しては、常に民衆が暴力をもって対抗した。
日本各地で百姓一揆があり、明治維新後も士族反乱、自由民権運動、軍人による維新運動、武装した共産主義者・無政府主義者と、暴力が社会を動かそうとした。
もし、明治維新の志士たちが幕府に対して話し合いを持ちかけていたら、どうだろうか。一顧もされずに投獄されただろう。2.26事件の青年将校たちも、なるべく武力を行使せずに有力な皇道派を軍部と政権の中枢に擁立し、統制派を排除しようとしたが、徹底した弾圧が加えられ、青年将校が指揮する主力部隊の満州派遣を目前に決起した。
戦後、左翼系学生を中心とした60年安保、70年安保、三里塚闘争は目的を達成したかはともかく権力を揺り動かしたことに間違いない。それは日本赤軍や東アジア反日武装戦線等の武装闘争組織も同様だ。山谷や釜ヶ崎の寄せ場では労働者による暴動があり、尖鋭な労働組合があり、べ平連は脱走兵を手引きして逃走を支援するなど直接的な活動をしていた。
民衆の声が社会を動かす!
その声は言論にとどまらず、直接行動として大きなうねりを形成していた。
その力を少なからず民衆が支持していた時代があったわけだ。
暴力という言葉を奪われた民
学生運動は退潮した。
労働組合も力を失い、組合幹部は出世を約束された労働貴族で、多くが御用組合となり闘いを放棄したようだ。
日本共産党までもが自民党に媚びているかのような右傾化の様相。
人々の間には、ただ沈滞した諦めの陰鬱で刹那的な空気のみが漂っている。
声を挙げ、こぶしを挙げて現状を打破しようという覇気は、人々のどこにも見当たらないと私は思う。
この沈滞はどこから来たのだろう。
よく言われているのは、連合赤軍の山岳ベース事件発覚。山の基地での同志殺し・・・それから東アジア反日武装戦線による三菱重工爆破。通行人、無辜を巻き込んだ爆破。これらが左翼系の武装闘争だけでなく、直接行動をも何か忌むべきものとして人々にマイナスイメージを与えた大きな出来事だという。東アジア反日武装戦線の支援者は、当時活動していた労働組合の仲間から「反日のせいで、組合で地道に積み重ねてきた運動の成果がパーになった」と言われて絶縁されたという。
さらにオウム真理教による一連の事件と、9.11に代表されるイスラム原理主義テロも大きく影響しているだろう。
ここで見過ごせないのはマスコミによる「テロ=悪」「テロとの戦い=正義」という刷り込みだ。
特に日本においてマスコミは反権力的と言われているが、本当にそうだろうか。既存メディアによる反権力キャンペーンは、しょせん予定調和的な「化けの皮」でしかないと思う。つまりガス抜きだ。
マスコミも、すなわち会社組織である。その生殺与奪の権は、権力が握っている。
ここ最近は「電通案件」という権力による茶番が可視化されているが、マスコミの報道など、どれも電通を通しているかはともかくとして茶番だと思った方がいい。
極端な例は、湾岸戦争のナイラ証言だ。
ウクライナ紛争でも、ウクライナの人権監察官リュドミラ・デミソワによるロシア軍残虐行為デッチ上げが発覚している。これは第二のナイラ証言として歴史に刻まれるだろう。
ウクライナ情勢を巡って、日本政府は自衛隊機による防衛装備品供与やNATO首脳会議参加など、米英主導のウクライナ軍事支援に前のめりになって肩入れしているにもかかわらず、「反権力」のサヨクマスコミがそれを批判したことがあるだろうか。それどころか、ウクライナ人は最後の一兵まで戦えとばかりの「根こそぎ動員」ゼレンスキー政権とその背後にある米英の戦争政策を称賛して、戦火を煽り立てている。
マスコミは権力の広報機関でしかない。
権力ー特に日本の手綱を握るアメリカ。その宣伝機関があらゆるマスコミだ。
そのマスコミが、何を宣伝してきたのか。
何か事件があるたびに、センセーショナルに悲惨さを強調して「治安の悪化」を印象付ける。
「体感治安」の悪化とは、ひとえにマスコミが人々を煽り、刷り込んだものに過ぎない。
治安が悪化している、テロの危険がある、刃物は危ない、可燃性液体は危ない、爆薬の原料が・・・・こう騒ぎ立てることで何が起こるか。
人々が、自然に、自発的に、治安強化のための監視社会・規制社会を受け入れるということだ。
爆弾事件など、それこそ60年代、70年代が全盛だし、少年事件も凶悪事件も件数は減っている。ところがマスコミが少数の珍しい事件を針小棒大に報道して、人々の不安を煽り立てることで、人々が権力による統制を喜んで受け入れる下地を作っている。そうとしか思えないのだが。
その一環として、民衆による直接行動はテロとして、人々の「自粛対象」となる。それでよろこぶのは誰なのか。
民衆の声としての暴力の奪還
暴力は、民衆の権利だ。
と言っても、無制限の無頼漢的な暴力が許されるとは思わない。
正確には、権力の暴走を止める手段として、統制された暴力を組織し、行使することは、民衆の権利である。
と、私は信じている。
マスコミが権力の側の広報機関に過ぎないことは、初めからわかりきっている。
議会も同様だ。レーニンの言葉で議会を「おしゃべり小屋」として批判している。曰く
まさにその通りなのだ。私は選挙がまったく無駄とは思わないが、それが全てと言わんばかりの腑抜けた「活動家」には腹が立つ。選挙と議会制では、根本はなにも変わらない。
したがって、マスコミと議会の言うことを真に受けてはいけない。
彼らの言葉には、常に権力の臭いがあり、権力の意図するところを代弁しているに過ぎない。
権力が民衆に望むのは何か。いつの時代でも同じことだ。
権力にとって、民衆は家畜であるべきなのだ。
家畜は「生かさず殺さず」で支配する。
家畜に意志は不要だ。飼い主の思惑通りに使役されていればいい。
そして、飼い主の都合によってはエサを与えずに餓死させたり、殺処分したりする。
だから、家畜には爪も牙もいらない。去勢してしまった方がいい。飼い主に逆らわないように。
いいかい?マスコミも議会も、民衆を玉無しにして爪と牙を取り上げるためにある。
日本の民衆に訴えかけたいのは、マスコミや議会がそもそも民衆の敵であると認識することだ。
それは、いずれ民衆の側に奪還すべきものであるが、それより先に奪還しなければならないものは「言葉」である。
言葉とは、言い換えれば無限の希望だ。無限の可能性だ。
その実体化は、まぎれもなく暴力である。
権力による家畜化の軛を破壊するのは、ただ暴力しかありえない。
なぜならば、言論による平和的解決の前提さえも暴力だからである。
あらゆる世代の民衆は牙を奪還しなければならないし、年配者は若者から牙を奪ってはいけない。
我々から牙を奪う言論には気を付けなければいけない。それは権力の意図を代弁しているのかもしれない。
一握りの権力者が民衆の生殺与奪の権を握り、民衆を家畜として牙を奪い支配することは、平和なのか。そうは思えない。
人間は、鋭い牙と爪もそのままに言葉を駆使して平和を築くだろう。牙と爪を放棄した者が語るべき言葉など存在しない。家畜なのだから。
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