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ふしぎな酒場 スナックバロンの思い出2

新幹線を下り、静岡駅に降り立ったのは午後9時ころだったと思う。
静岡駅から伸びる地下道を歩き、地上に出ると、そこが繁華街。
僕の印象では若者が多いと思った。

スナックバロンはこの繁華街と、静岡市役所、葵区役所、警察署などが建ち並ぶ官庁街の境目にある。まさに静岡県内では最高の一等地と言える。かつてお尋ね者だった人が店を構えるにしては、ずいぶんと目立つ場所という印象を失礼ながら抱いた(その理由は後日わかった)。
店に向かいながら、植垣さんという人物がどんな人なのか、今も過激派なのかもしれないし、客も過激派かもしれない。また現在も警察の監視下にあるかもしれず、この店を訪れたことで僕も警察にマークされることになるかもしれない・・・という不安があったことは告白しておこう。これらの不安は半分は事実で半分は杞憂、ということが後日、判明する。

コインパーキングの向かい、雑居ビルの4階にスナックバロンはあった。
「ふしぎな酒場 スナックバロン」
看板が夜空に光っている。
いったい、何が「ふしぎ」なんだろう。
店に足を踏み入れたら最後、「不思議の国のアリス」の主人公のように異界へと誘われることになるのかもしれない・・・と妄想する。
あるいは、その不思議の国の住民は過激派かもしれないし警察かもしれない。思わず、店に入る前に付近に私服警官がいないかを見回してしまう。

軋みながら上昇するエレベーターを降りると、重厚な防音扉がある。
店に入って第一声、なんと発すればよいのだろうと迷いながら扉を開けると、威勢のいい「いらっしゃい!」という声。
そこにいたのが、植垣康博さんだった。

とりあえず、カウンターに座り、ハイボールを頼む。店にはバロンこと植垣さんと、二人の女性従業員。植垣さんは奥の厨房に入っていった。
「うちのマスターの素性はしってる?」と女性。
「はい、この漫画も読みましたし、植垣さんの本も読んでいます」
カウンターには本が並んでいる。植垣さんの著書に、「レッド」。それに鈴木邦男さんの本もあったと思う。ほかにも難しそうな物理学の教科書。そういえば、植垣さんは弘前大学で物理を専攻していたのだという。
壁には、植垣さんが逮捕された時の若かりし頃の写真。ボサボサに伸びた髪としかめ顔。
お通しを持って出てきた植垣さんは、長い月日を経てすっかり丸くなっている。頭髪はお坊さんのようにツルツルだし、笑顔が絶えない。知らない人がみたら悟りの境地に達した僧侶のように見えるだろう。

「ようこそ、バロンへ!」
そう言って迎えてくれた植垣さんは、続けて「ふしぎな酒場!」とひとりごちた。
ふしぎな酒場・・・何がふしぎなのか。店に来る前から抱いていた疑問だったが、口にはせずハイボールを流し込む。

この日の会話の内容は、よく覚えていない。
しかし植垣さんは僕を大歓迎してくれたと思う。僕にとっても居心地の良い空間だった。
何時間か杯を重ねて、店を出た時には深夜。
オーバーナイトがある温泉施設が東静岡駅近くにあると教えてもらった。

こうして、僕は「ふしぎな酒場」の異界へと迷い込んだ。
それから数年に渡り、スナックバロンが閉店する2022年4月までの間、この異界を彷徨うことになる。


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