用法・容量を守って、正しくお使い下さい。

かつてでいう『援助交際』や『ブルセラ』、今でいう「デートクラブ」や「JKリフレ」等の、"未成年による性の切り売り"に言及する際は、常に'ひとつの命題'がついてくる。

『日本の未来』を見据えて、ある種の'良識'を振りかざした時、いわば斥力としての"彼女たち"を、目下の「他山の石」として'損切り'し、捨て置いていってしまう。その姿は、つまびらかに―――を露出しながら、"こんな事してちゃダメだよ"と、説教するオジサンと、大して変わらない。背景に、潜在的な『発達障害』や、文科省カリキュラムからの脱落が尾を引いているのであれば、そしてこれらの前提を用意すべき、生育環境の不安定さがあるとすれば、ある種の'良識'は、"彼女たち"の命綱を断ち切る最後の一太刀として、無関心に振り下ろされてしまう。

これは、所謂『体育会』系にまつわる問題とよく似ている。『体育会』的な環境で育ったものは、それが実際にはたまたま運が良かった ―再現性のない思い込み― だけの、いわば、生き残れるものだけが生き残れる、後追い的"レトリック" ―要は'現前'に服従しただけ― であったとしても、その内側を経験した者には、構造の持つ'不可能性'に、およそ気付かない。'惻隠の情'は、短絡すると'リソースの無駄遣い'に見えてしまう(≒だからこそ'言挙げ'される)。脱落した"死人"に口は無く、生き残った者に、"生き残らなかった者"への関心を、保持し続けてもらうのは困難だろう。

私的な潔癖を振りかざし、三白眼で訝しむ、彼ら彼女らの抱える『inner-children』を片手であやしつつも、もう一方の手では、"枠組み"の'書き換え'を模索する。'剥奪感に駆動される'(パイの奪取)競争に拠らない、'発展に資する'(パイの拡大)競争 ―本来あるべき歩留まり― へと更新するのだ。そのための二枚腰、或いは二枚舌な振る舞いが、必要とされている。これは単なる不条理の先延しという、'嘘つき'による二枚舌、ではなく、実行可能性に棹指す"動員合戦"としての二枚舌で、'用法・容量を守って正しく'使わなければならない。

BTSが'20年代の始まりに「Inner Child」を発表した。これにはどことなく残念で、至極無念な既視感がある。かつての米クリントン大統領、"モニカ・ルインスキー"に端を発する弾劾裁判に惹起した、"ACブーム"の再燃をどこか彷彿とさせるのだ。『AC』もしくは『inner-child』という概念は、'鍵格好付き'のもので、既存の精神疾患の治療からは、こぼれ落ちるもの受け皿、という'生い立ち'があった。EBMに基づく医療行為と、不定愁訴に応接するコメディカル群の関係に相当する。"homeopathy"と呼ばれるものが、すべてoccultとはいわない。だがその内側には、理学療法に基づく訓練('re-habit'→習慣性を取り戻す)に相当するものから、風俗まがいのマッサージまで、指向の異なるグラデーションがあり、一方で、それらを俯瞰し、重み付けし、伝達する、アナウンスメントは少ない。そんな"空白地帯"に流れ込み、埋め合わせていったのが、かつてでいう"ACブーム"であり、共に時流に乗った"エヴァ"の大流行だった。

つまり『AC』は'本人の心の在り様'ではなく、核家族化や過剰流動性に抗しきれない、社会制度設計の欠陥が招いた、'起きるべくして起きた'現象であった、といえる。その意味で"毒親問題"と地平を共有している。『毒親』は、その子供らは、果たして何かの病気だろうか。もしくは診断名が付くとして、具体的な治療方法はあるのだろうか。肩こりや腰痛は、マッサージでは完治しない。それらは一過性の休息、一時凌ぎにはなっても、リアリスティックに効果があるのは'筋トレ'だけだ。もう、おわかりだろうか。あの当時"エヴァ"には、フィクションに仮構する、思考実験としての『戸塚ヨットスクール』(の模索と失敗)、という側面が多いにあったのだ。誤解無いよう附言すると、"受け皿カテゴリー"は後に解像度を増し、ADHD、ASD、LDに分布する、'重心の顕れ'としてfocusしていく。先天的な特性を、"心の問題"に還元するのは、間違いといえる。

『止まった時計は二度、"正確"な時を刻む(思春期と"第2思春期"≒更年期障害)』を当て込んだビジネスに、回収されるのはやるせない。繰り返すが、これらを『本人の心の問題』にすり替えては、絶対にいけないのだ。必要なのは'精神分析'ではなく、'社会分析'であり、いわゆる『自分探し』ではなく、"自分"を'どう無くしていくか'が問われている。"エヴァ"の庵野は『ラブ&ポップ』を経て、ひとまず"カレカノ"に着陸する。そこで歌われるEDテーマ※は、'探すのをやめたとき、見つかることも良くある話で'とする、'止揚'に溢れるものだった。(※『夢の中へ』©井上陽水』cover)

一定の規模以上の処に住んでいると、地域をカバーする大型書店において、'書き下ろし'を抱えた版元が、当該作家のサイン会を催す。わたしの居た地域の書店にも、当代の流行作家が頻繁にやってきていた。中には、デビュー当初からつぶさに読んでいて、本当に好きでどうしようもない作家もいた。が、わたしはサイン会には行かなかった。好きであればあるほど、会いに行くのが憚られた。名前を言って、自分の横に、直筆の"signature"を貰い、一言二言'ことば'を交わし、帰る。影響など与えるはずも無いのに、その"定型文"をなぞることが出来なかった。'その他大勢'になりたくない、というおおそれたものではなく、その真逆。単に臆して行けなかった。その前に立つ勇気が無かった。ある時は一目見たくて、道路沿いの窓越しに覗き見たりもした。仕立てのいい外套を纏っていて、脱ぎながら席に着く様子が、人々の隙間に見えた。カシミアコートの、軽くて柔らかい'手触り'や、芯のある弾力が、遠くから見てもよくわかった。それだけで十分だった。ただ最後に白状するのなら、その作家の存在が、自分の中で変化してしまうことが、何より怖かったのだと思う。

本当のことを口にするのは照れくさい。それは私にとっては明きらかで、誰そ彼そに、伝える必然が無いからだ。'言挙げ'は、再現や復元、もしくは'replicant'に相当する。要は、なぜそれを'言挙げ'するのか、という"メタメッセージ"がついて回り、キャンセルすることは不可能にある。疲れの蓄積に無頓着でいると'多弁'になる、といった、身体性に依拠する"主客"のズレは、コミュニケーション(≒言語)の前提に横たわる、人間関係(≒言語化)の不可避性と言い換えることが出来る。感触としてはリアルに残っていても、'ことば化'すればきっと違う何かになる。わたしはくずしろさんに、その作品群に、"蛍光マーカー"で線を引きたくないのだと思う。それくらい自明で、'emulsional'な存在に、巡り合えたことに、それを用意してくれたパブリッシャーに、感謝している。

漫画家くずしろ。商業作家の常として、作品の導入部分には'stereo-type'を有するものの、こうした既存の'cliché'に、寄りかかるままにしていない。その一方で、キャラクターの求心力をテコに、"gender-scheme"の'書き換え'や、その'Ver.up'、ましてや"generation"の刷新を、声高く先導したり、指嗾したりするものでもない。何処にでもいる人々の、ほんのわずかなリ・フレーミングを、'コマ撮り'のクレイ・アニメーションのように、穏かな息吹を以て、浮かび上がらせていく。繊細かつなめらかに、何よりも遅い速度で、日々を、日常を、"わたし"の在りようを、確かに更新してくれる。

"百合"がブームと言われて久しい。その内で"porno-graphy"と、そうでないものの違いは、端にそれが、'使い回し'かどうか、だけなのだろう。自覚的に"自分"をなぞる時、下品で、陳腐で、ありきたりな、壁に張り付く ―不快を撒き散らす― "porno-graphy"に成り下がる。これは伝わる。意図せぬアイロニズムとして、抑圧や停滞を与えていく。加えて、この'使い回し'による劣後は、表層のsurface-wereに留まらず、'solid'な、勿体とも呼べる、'アプローチ方法'に至るまで、須く適用される。恐ろしい。自分自身が飽きていることに、自分自身で気付ぬまま、'over-shoot'を抑止出来ずに埋没する。"再生産"されるporno-graphy。

問題は、商業的な選抜において、多くの場合、『作品の導入部分には'stereo-type'を有する』のだ。'完全に新しい'ものは、論理的な意味において応接出来ない。'天才'が過ぎると、評定の埒外に飛び出してしまう。夏の制服のブラウスの袖を、ひとつ/ふたつ折る、に執着しているクラスメートがいた。紺ハイソのワンポイントのそれが、ラルフローレンかイーストボーイかプレイボーイかアーノルドパーマかで、その日のテンションが違っていた。人により、時期や期間にズレはあるものの、振り返れば不安神経症 ―意味のない記号― 的、余所者には感知出来ない細部の異同に、過剰な意味 ―表拍/裏拍の"境界"にただよう'揺らぎ'― を読み込む、クラス内で勝手に繰り広げられる"チキンゲーム"に、拘泥した経験があるだろう。もはやわたしには感知も関与もできない、限り無く微細で、表層的で、非生産的な、ハイコンテクストを参照して覆い尽くす、剥き出しの日常。痛覚の無いままに、放射線のダメージの蓄積は、気付かぬうちに内側を蝕んでいく。

皆が持っているバッグだから、欲しいに決まっている。
皆が持っていないバッグだから、欲しいに決まっている。
バッグなんていらない、は―――からの'take off'を意味する。

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