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"所有"の複数形が『結婚』

今秋期放送されるanimationのラインナップに、"百合"と呼びうる作品群が揃っている。

西側先進国とその影響化にある国・地域を中心とする、特に日本では"第4波feminism(#metoo,#kutoo,)"と名指しされる、"新旗手"の担い手による"投企"を映したもの。つまりは"sister-hood"の流れを、日本の"特殊文脈"を参照し、"localization"したもの。そうした言説は「広く」流通するだろう。

だが、現実は少し違う。
単数形では"補償性"、複数形では"機能的同等性"("functional-equivalents")と呼ぶ『代償行為』の露われで、唱導や"slogan"、つまり「言挙げ」される時点で、その事実が"ここには無いこと"を意味する。

"百合"、或いは"LGBTq"という言葉が早々に無くなればいいと思っている。「言葉」が指嗾する"勘違い"を防ぐと共に、強者による"論旨の読み替え"を防遏する。無論、前提として「言葉」が流通しなければ、論点化("Agenda")されない、というのは判る。だがこの問題は、LGBTqの頭文字の表す意義、それらを得意気に披露する"リベラル優等生"を漸次量産するのが目的ではない。事の本質は"SOGI"にあり、更にはorientationをlostする"a-romantic"とどう向き合い、社会の維持伸延を可能にするか。つまり"恋愛の多様性"以前の、"恋愛からの退却"にどう手当てするか(或いはしないのか)が問われている。

LGBTqを声高に叫んでも、今もすでに起きている"backlush"と、彼等を飼い殺し餌を撒く、既得権による"spin"を増長し、もう一方では"新旗手"に乗っかり勢力拡大せんとする、"marginaly"による"自動運動"が展開し、この"共犯関係" は忘れ去られるまで続いていく。"第4波"と名指しされる前に、各所で繰り返し目撃するこの"自動運動"に、わたしたちは気付くべきだ。

"a-romantic"に手当てする。
言い方を換えれば、"恋愛のみ"に依らない共同体の維持可能性を模索する。

日本における"romantic love illusion"、つまり「恋愛結婚」の日は浅い。"ヴァージンロード"の和製英語に抵抗を感じる人がいるように、この"枠組み"は極めて人為的・作為的といえる。"ロマンティック・ラブ"、即ち"不可能性への投企"を名状するこの言葉は、歴史を参照すれば、『姫×使用人』を代表する「身分違い」を前提とする"人形姫語り"(=「どちらか一方は息が出来ない」)の類型であった。"階級から格差"("laborからjob"へ)の流れの中、身分違いの恋というのは原理的に無くなっていく。替わりに"枠組み"を残したまま、物語を駆動させる"推進力"として、様々な『不可能性のヴァリエーション』を"界面上"に読み込んでいく。そして、その多くは"真実の愛"の証として『結婚』に着陸する(或いは"情死"に帰結する)。つまり『結婚』が目的化し、短絡することで"romantic love illusion"はその完成をみせる。

日本でも昭和の中期から少し後ろまでは、過半以上が" 見合い結婚"であり、(正確な数を把握するのは"原理的"に不可能としても)今なお機能的に等価な"枠組み"が、マッチングアプリとして代替される。見ず知らずの土地に送り出される「お嫁さん」を、"fictionalな後ろ盾"とし支えたのが"romantic love illusion"、『結婚』こそが真実の愛、とする"虚構"であった。「時代」の歌謡曲を参照すると、その残響を色濃く感覚できる。

台湾からの留学生が、『木綿のハンカチーフ(©筒美京平©松本隆)』を聴いて、「男の妄想にある"女"の姿」と躊躇なく言う。残念ながら"真実"とはそんなものだろう。「時代」を「地域」を越える普遍性など、きっと存在しない。普遍性がある、と"願う"心性だけが、儚い『永遠』を刻んでいく。

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