"火の鳥"を射殺したい

書く、という作業は時に、思いもしない方向に転がる。"頭の整理"と言ったりもするが、良いことばかりではない。周期的にランダム発生する"不作の年"が、連作による土壌の摩耗を抑止したり、切実な被害を呼ぶ地震と津波が、内湾に沈澱する汚泥をシャッフルし、漁業資源にまつわるエコシステムを賦活したりする。

要は、"catharsis"をもたらす前駆には、相応する"充填の作業"があり、ヤマシタトモコが『違国日記』で言及するように、創作とは、"穴を掘って埋める作業"に全く他ならない。"澱"の解消を目指したはずが、掘り下げているうちに、また新たな"澱"にアテられる。その繰り返し。

前項を書いているとき、『売春に応じる女子高生』を確認した当時の感情が、わたし自身が"傷ついている"ものだと、改めて知った。勝手に期待して、勝手にどこかで傷ついている。都合のいい感情なのだと思う。加害者と同じ地平に立ちながら、被害者になろうとする。彼女を"わたし"から切り離せずに、その場からただ回避するしかなかった感触。それを再び、追憶の中に体験している。

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95年末『新世紀エヴァンゲリオン』アニメーション放映当時、ほぼ時期を同じくして村上龍から提出されたのが、『ラブ&ポップ ~トパーズⅡ~』だった。振り返ればこれは、"愛と幻想のファシズム"を、女子高生により"再起動"した小作品で、"愛と幻想"が、"ラブとポップ"に塗り代わり、"ラブでポップなカワイイ革命"の前夜譚に相当するような感覚か。"エヴァ"をひとまずやり終えた庵野が、次の映像化にこの作品を選んだのは、どこかで地平を共有していると感じたのか、たまたま"売れる"と思っただけなのか、それは本人以外にはわからない。

村上は、当時連載していたエッセイで、『飢餓に苦しんでもいない豊かな国で、高校生の女の子が売春をする。そのことを、たとえば途上国に住む人々に、理解してもらうのは困難だろう。』といった主旨のことを書いている。特有の反語的表現で、文脈から、或いは、かの"女子高生小説"から読み解けば、当時の"女の子"たちを馬鹿にする意図にはないことを付言しておく。

"トパーズ"に通底するメタファーを、明るみにするのは避ける。

女の子たちが束の間の"逃避"のための資金を、"援助交際"で稼ぐのと、男の子たちが『引きこもり』状態に陥るのは("引きこもり事案"は当初、男子に集中してみられた)、鏡像関係にあるのだと思う。当時、引きこもりに対し、繰り返し言われていたのが、『こんな現象は豊かさの現れで、蓄えが無ければ引きこもりたくても出来ない』というものだった。的外れな、批判とも呼べぬ悪口で、これは前述、"貧困に要請されない売春"にも通貫している。いわば見たくないものは見ない、という大人達共通の姿勢であった。

村上はこれを共時的に捉え、『ラブ&ポップ』の後に提出される『希望の国のエクソダス』作中において、"この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない。"というセリフに照準していく。たたみかけるように、その後の、"引きこもり"を描く『最後の家族』へと続いていく。当時、併走するように彼の創作を支えたのが、精神科医の斉藤環氏だったと、個人的な印象として強く残っている。仮に、"一部政治家"や、"引き出し屋等の触法ビジネス"の言うように、彼ら彼女らから"豊かさ"を奪い、世間に、そして市場に『馴致・順応』させていっても、かわりに増えるのは『自死とテロ』でしかないように思う。そしていま、かろうじて蓄えのあった日本から、"豊かさ"は失われ、貧困に追い詰められる売春と、隣接し発生する精神疾患や、発達障害の発見、自死の惹起、そして、"死刑"覚悟の ―ほぼ代替的な自死ともいえる― 無差別テロリズムが、斯様に発生してきてしまっている。

「マンガ大賞2021」大賞を受賞した、『葬送のフリーレン』を読んでいると、どこまでもスーパーフラットで、いつまででもシミュラークルな、清潔で便利で快適な「終わりなき日常」の"再定義"を、今一度試みているように感覚する。同時にこれは、この終わらない"鉄の檻"から、我々はまだこれっぽっちも抜け出せていないことを、目視で"再確認"する作業でもある。この感覚は、大今良時版"火の鳥"こと『不滅のあなたへ』に触れる際にも押し寄せる。実家の傍には見下ろす位置に神社があり、夏祭りの翌明け方、カラス群がる"祭りの跡"を、ベランダから眺めるのが好きだった。祭り自体は子どもの頃兄と何度か行ったきりで、引っ越し組のわたしには地元に知り合いがおらず、次第に疎遠になっていた。が、祭りに行かなくなってからも、"祭りの跡"だけはかかさず毎年見ていた。後に、中学の教科書に載っていた ―無論、授業範囲外である― 芥川の『トロツコ』を読んでいたとき、あの時の、"選択の機会はあったのに自らそれを手放した、もはや'喪失'とは呼んではいけない何か"、にfocusが合った気がした。

『葬送曲』は"requiem"であり、またさらに戻すと"鎮魂歌"になる。

わたしは以前、新世紀の到来を"事実上"告げたのは『機動戦艦ナデシコ』と書いた。『ナデシコ(略)』は、プロットを辿れば、"○○はわたしのことが好き"、と言っていた女の子が、"わたしは○○が好き"と、リ・フレーミングする話で、本当にそれ以上でも以下でもない。舞台となる『宇宙』は、限りなく"借景"に近いというより、数多の(宇宙もの)アニメ作品・特撮作品への、オマージュとコラージュの溢れ出る作品展開になっている。構えとしては『超時空要塞マクロス』に近しいものがある。一方で、『マクロス(略)』に感じる、"舞台装置(≒ロボット、戦争、宇宙)"に対す"ニヒルな割り切り"は、こと『ナデシコ(略)』においては、"通貫する過剰な愛(と照れ)"に趣きが変わり、予期せぬアイロニズムを呼び込むことに成功している。そして、この『ナデシコ(略)』に登場するのが、"電子の妖精"こと、『"思兼"オペレーター・ホシノ=ルリ』となる。

日本神話体系に登場する"智恵の神"に名を戴く、『ナデシコ(略)』における"思兼"とは、super-computerやAIの延長線上にあろう人工知能のさらに先、いわば"singularity"の閾値を超えた、人classよりも上位の存在として"scotoma"の機能を果たしていく。言い方を変えれば、我々世界のいう"一神教における神"と、機能等価な存在として、作品世界内に据え置かれている。これの"オペレーター"の役割とはつまり、"神の御託宣"の依代や媒介として ―総じて"祈るもの"の表象― その"振り付け"を、体現していく存在となる。

"エルフ"として(人より)長命を生きる"フリーレン"。見た目や性格の近似もさることながら、やはりフリーレン同様に、"葬送"の役回りを引き受けていく"ルリルリ"こと、ホシノ=ルリ。片や、"神がかった魔法使い"として崇められ、片や、スパコンオペレーターとして、"神の御託宣"を告げていく。これらを眺め見ていると、"ヒト"が『神』を造り、そして自分たちよりも上位の存在を、どこかで強く求めているのがよくわかる。"信じられる神"ではなく、"神を信じる強さ"こそ、つぶさに希求されている。

見立てのアングルを替えれば、一昔前のアニメーション主題歌が、"願えば夢は叶う"といった常套句に還元されるのに対し、その『夢』を作品ごとに入れ替えることで規定サイクルを廻していた。が、『ナデシコ(略)』は違う。OP曲『YOU GET TO BURNING』に始まり、ED曲『わたしらしく』の"心を燃やしたことを誇れるように(© 松浦有希)"へと続く。ここでは『夢』そのものはブラインドに入り、関係性によって賦活する"心の在り様"のみが問われていく。それは言わずもがな、今の『鬼滅の刃』にも通ずるところだ。附言すれば、『ナデシコ(略)』ではキャラクターデザインだった後藤圭二氏が、いま監督として『虚構推理』"岩永琴子"に韻律を与えていく。ここにもやはり"ホシノ=ルリ"からの共時性を、どこか読み込んでしまう。妄想逞しい、"知恵の神"を自称する岩永琴子。欠損を埋め合わせるかのように、彼女は言葉を紡いでいく。まるでそれは"彼岸"に向けた鎮魂歌であり、自らを抱擁する子守歌のようにも見える。琴子は、"彼女の時間軸の中"にのみ、生きている印象を与える。裏返せばそれは、現実にはもはや"生きていないこと"を含有する。総じて、これら女の子版『星の王子さま』に連なる作品群には、"死の予感"とは逆位相の、"生の前駆"と呼ぶべきものが、どこかに通底している。

女の子たちは性的に、男の子たちは物理的に、"おやじ狩り"をはじめた1995年。

こうしたアッパーな言説の裏側には、自傷の代替としての自罰的な売春や、抑鬱感から'滑落'し、脱社会化してゆく"ヒキこもり/ヒラキこもり"現象が控えていた。一部、経済合理性に棹指し、'性風俗'に手段的にコミットするものや、"私の性器はワイセツではない"を旨とする'Activist'もいたが、"成り上がり"や"art運動"は少数派だから機能する、という側面がある。総じ、これらを纏めて敷衍すれば、これまでの枠組みが、"信じられる大人"を前提に、その一部に"信じられぬ大人"がいるという、コミュニケーション可能性の、"内側にある反動"としてあったものが、もはや大人を、社会を、ハナから信じていないものたちによる、コミュニケーションの不可能性への"枠組み"に、反転したことを意味する。

1995年当時、渋谷を賑わせた"チーマー"や、"コギャル"はいま親世代になり、その子どもらは概ね高校生になっている。かれらは幼少期に放射能飛散状況下にマスクを強いられ、今もまた、新型コロナウイルス蔓延下で、学校活動もろくに出来ぬまま、フェイスマスクを装着している。あからさまな『大人たち』の不作為を、二度も連続的に、"体験として"感覚している。大きなビルのガラス窓に映し、ダンスに興じるカレカノらの育む律動は、言葉によらぬ波紋として、どこまでも穏やかに拡がっている。

『新世紀エヴァンゲリオン』の"○○チルドレン"らは、村上龍『愛と幻想のファシズム』の登場人物から名を戴いている。それが庵野のオマージュなのか、たまたま手元にあった小説の即引きなのかは、よくわからない。『愛と幻想のファシズム』の、"ファシスト党"党首鈴原冬二は、"祈りの姿勢"をことごとく退ける。自分以外を嘲り、"養鶏場のブロイラーが見る夢"と吐き捨てながら、残飯漁りの"スポイルドベア"は射殺してもいい、として周囲を脅す。こちら側とあちら側、執拗に線をひいていく。そこにあるのは、"切り取れ、あの祈る手を"を旨とする、布教とは真反対の、信仰や思想や"リベラル"を、徹底的に狩り取っていく姿。新しい秩序を屹立する、"神"そのものになろうとする。

フリーレンが、ルリルリが、そしてエヴァの子ども達にあるのが、"祈りの姿勢"だとは思わない。そこにあるのは、いわば"能動的な"受動の姿だ。それは我々の、日々生きていく姿勢そのものだろう。ヒトは完全な存在ではない。生きるとは、不完全さに打ちのめされながらも、際限なく、痛みを和らげていく作業にほかならない。期待しては裏切られ、そしてまた期待をする。期待せずにはいられない。それはまさに、穴を掘っては埋めていく作業だ。東浩紀は、先の『シン・エヴァンゲリオン』公開に際し、庵野の纏う"エヴァの呪い"と表現する。わたしはくだんの作品を観ていない。今後も多分観ないと思う。

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