見出し画像

'A MEMORY' is just a memory

哀しいときに、'怖い話'は親和する。

ミステリーを途中でやめるとホラーになる、と言ったのは作家の貴志祐介であった。同じく作家の、よしもとばななは、depression[抑鬱]を分節することなく、肯定も否定もない地平に、ただ横たわらせていく。依存、もしくは依存症について言及するとき、よしもとばなな著『アムリタ』の冒頭数頁に、ほんの少し描写される、"妹"を想い出す。

芸能界に籍を置く'妹'。出会いと別れの強烈な繰り返しに、その息もつかない濃密さに、擦り切れるのも厭わず、'さも当たり前のように'、溶け出していく。その複製元である母の、なにか'悪いことでもしている'かのような、いつまでも若々しい姿。『となりのトトロ』を観て、この世の全ての姉妹のために、涙する'姉'。最短距離でこちらを振り返る、俯瞰に眺める、"Victorの犬"。これほど精緻に、酷薄に、美しく、addictonの本質に言及している描写を他にみない。

'よしもとばなな'はarticle[分節]出来ない。プロットらしきはあってないようなもので、categoryに還元されない。純文なのか、文芸なのか、それ以外なのか、categorizeしてもあまり意味が無いと思える。

"自然科学"もしくは'art'は、統合を眼差し、"社会科学"もしくは'政治'は、分節を促す。色覚異常は、EBMの見地から、『正常』と同一のspectrumにあることが指摘され始めている。これは正/異の端境が、こちら側とあちら側ではなく、単なるバラつきに過ぎないことを示唆する。偶発的に『異常』に該当するヒトたちは、主観にはそれが必然であるかのように感覚する。或いは、主客のズレを、文学的昇華に投げ込み、屹立する美的実存の在り様を、人文と呼ぶ。"人文科学"は、客観的事実と主観的納得の、剥離する'類と個'を、文学的に告発する。

高校時分に、生徒によるオリジナル脚本で上演・大会出場をした。わたしは生粋の部員ではなかったが、特別有名ではない演劇部が人足を欲しているのは常で、なんだかんだで一時期ゲキ部に"所属"していた。演劇部・文芸部・放送部は横に繋がり、昼休みは放送室に集まり皆で弁当を食う。わたしは話に加わるというより、機材のDATを使いたくて何となく入り浸っているうちに、いつの間にか大会出場の裏方要員としてカウントされていた。

劇団キャラメルボックスに、まだ上川隆也が在籍していた頃、佐々木蔵之介や腹筋善之助有する、西田シャトナーの『惑星ピスタチオ』を、学生割引で観にいったりしていた。第三舞台の最盛期には間に合わなかったが、才能が'お笑い'に移行する直前の、最後尾の小劇場ブームの残響がそこにはあった。

顧問の先生がホンを書く、或いは既存を尺や人数に合わせてadaptすることはあっても、さほど熱心ではない都立高の演劇部が、一から全てオリジナルで企図するのは珍しかった。バランスよく面子が揃ってcastの厚みがそれなりにあった、というのもあるが、やはり脚本を書いたAの存在が大きかったと思う。

Aは辺境の都立高から、定期考査だけでヌルっと東大に入るような才分だったが、いつもどこかで苛立っていた。問い掛けにはぐらかして応えると、反射的にグーで殴る。言葉が追いつかないゆえの苛立ち、ではなく、周囲が彼女に追いつかないゆえの自閉。仲間に囲まれてはいたが、囲まれるほどに、彼女は孤独だったと思う。才能は本質的な孤独を引き寄せる。彼女の苛立ちに触れて、殴られるのはいつもわたしだった。韜晦や慰めではなく、恋愛感情に依らない期待が、そこにはあったのだと思う。

その、オリジナル脚本を最初に読んだ感想は、'登場人物が全員A'という、ありきたりなものだった。作者が経験していないことは書けない、つまり、どんなに回避しようにも、自らの一側面を、登場人物に細分化するように露出してしまう。そんな自意識の撮って出しを、どうcancelするか、Aからどう離れようか、ばかりに注力したのを覚えている。最終的に、プロットを踏まえつつも脱線しまくる、メタファーを読み込む当てのない、チグハグでfocusのブレた、非凡気取りの凡庸な作品に着陸していった。大会は、強豪高が別格の仕上がりで、当たり前のように予選を突破していった。

思えば、逆だったのだ。取り留めのない話の羅列に、一筋の重なる光を見る。そのように収斂しなければ、作品とは呼べない。偶然を、不条理を、文学的昇華を経て、それが必然であったと飲み下す。多色多彩な乱反射を、spectrumの地平に見る。無意味で無限な世界と、有意味で有限な生の狭間に、発散と収束のdynamismの端境に、美を感応するのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?