シンエヴァを見に行った。想像以上に求められた解答編。【ネタバレ注意】
どうも、ざくおです。
エヴァンゲリオンは表面上はロボットのような人造人間が戦うバトルアニメとして受け取られがちですが、僕はそうは思いません。
エヴァンゲリオンとは「14歳という思春期にフォーカスした、青春群像劇をバトルアニメに落とし込んだアニメ史上最大の青春アニメ」だと思う。
初めてアニメ版・旧劇場版を見て感じ、そして新劇場版を通して確信が深まり、シンエヴァンゲリオンでその答えを魅せられました。
なぜ主人公たちが14歳という年齢なのか、なぜシンジがアニメ史上最もダサくて意気地ない主人公なのか、そしてなぜシンエヴァ公開まで様々な考察が飛び交うほど難解な作品として名高いのか。
その答えは「シンジが14歳の悩める思春期ボーイであり、その思春期の葛藤のなかもがいて成長する作品であり、思春期の葛藤には明確な正解が存在しないから」だと僕は感じました。
そんな感じでシンエヴァを見たあとに、過去のエヴァ作品を振り返っての自分なりの答えをつらつらと書いてみたいと思います。
注意:僕の主観が非常に多く含まれています。作品を見ての受けとり方は人それぞれだと思いますので、あくまで一意見として受け取っていただけると幸いです。
◯エヴァンゲリオンを通して庵野監督が魅せたかったであろうもの、僕が魅せられたもの。
まず、エヴァンゲリオンを通して庵野監督が見せたかったのはまさしく「思春期、そして人生観そのもの」だと思いました。
シンジはアニメの開始時から既に様々な心の葛藤を抱えており、それはアニメ版や新劇場版を通しても繰り返し描かれ続けてきました。
エヴァンゲリオンという超常的な世界観の中でもリアルで等身大の人間らしさで思春期の葛藤を背負ったシンジだからこそ、あれだけウジウジしていたし、いい意味でアニメの主人公感がなかったのだなぁと思いました。
そして、アニメ→旧劇場版→新劇場版と主人公が葛藤の中をもがき悩み続けた結果の、「シンジなりの思春期の葛藤へのアンサー」をシンエヴァで魅せつけられました。
それと同時に、登場キャラクターそれぞれが抱えていた葛藤にも決着がつき、綺麗に終劇となりました。
シンエヴァは(というか新劇場版を通してそうだったが)戦闘描写がかなり少なく、とにかくシンジの心理描写にかなりの力と時間が割かれていました。
こういった観点から見ても、庵野監督が魅せたかった「エヴァンゲリオン」はエヴァンゲリオンを取り巻く様々要因を通してシンジが葛藤し、思春期から成長していく「超リアルな青春群像劇」だと僕は解釈し、実際にそれを魅せられました。
◯エヴァンゲリオンの魅せ方のうまさ
エヴァンゲリオンは見返せば見返すほどその魅せ方の上手さに感嘆させられました。
例えば繰り返し見せられる性的描写。
やたらミサトさんのボディラインを強調するカメラアングルがあったり、アスカの裸や下着のシーン、アニメ版終盤の精神世界でのやたらエロい女性陣のボイスや旧劇場版のミサトのキス。
それらの性的描写シーンにも明確に意図があって描写された、「サービスサービスゥ」にとどまらない魅せ方だったと気付かされます。
僕にもあった、思春期特有の性への憧れや興味を引き出すことによって、視聴者は一気にシンジの思春期的な思想とシンクロして物語に引き込まれます。
思春期をテーマにしているからこそ、あの過剰で生々しい性的描写が、昨今のアニメのただのサービスシーンに止まらない深い精神描写に繋がっていると僕は受けとりました。
そういった、リアルな思春期の葛藤や思春期目線での描写をエヴァンゲリオンという超常的でアクロバティックな世界観のアニメーションに落とし込むことで、これほどの超大作となったのだと思います。
◯シンエヴァンゲリオンを見ての感想
まず、このシンエヴァンゲリオンを単体の作品として見るのはオススメしません。
過去のアニメ版、旧劇場版、新劇場版を通して、シンジと同じようにエヴァンゲリオンの世界観を考察し、葛藤できる人間だからこそ、シンエヴァンゲリオンを見た時に得られるものがあり、その本題を読み取れるのではないかなと思います。
戦闘描写はそれほど濃いものではなく、むしろその戦闘描写も後半は精神描写サイドに引き込まれていくので、是非過去作全てを見直してエヴァンゲリオンのキャラクターとのシンクロ率を高めてから見て欲しいなと思いました。
逆にそこまで至れているのであれば、むしろ見ない意味がありません。
心の中のエヴァンゲリオンが思春期の葛藤に囚われたままにしておくのはあまりに勿体ないと感じます。
コロナ禍が未だ猛威を振るう現状ですが、是非映画館へ足を運んで見てほしい作品でした。
◯【ネタバレ注意】自分なりのストーリーの解釈
蛇足ですが、最後に自分なりのストーリー解釈を置いていきます。
【時系列】
地上波アニメ版→旧劇場版
→新劇場版 序破Q→シンエヴァンゲリオン
行を途中で切り替えたのは世界線が変わったからです。
が、シンエヴァンゲリオンで明確に、アニメ版→旧劇場版から新劇場版→シンの物語が繋がっていることが示唆されたため、世界線は異なっていてもひと繋がりのストーリーです。
【ストーリー】
旧世界線ラストで、ゲンドウの目論む人類補完計画によってインパクトが起きますが、シンジは最終的に全ての魂を一緒にしてしまうのではなく、それぞれ個の人間として生きて行くことを選択し、世界はもう一度やり直されることになります。
新世界でもゲンドウはユイと同化するために人類補完計画を起こそうとしますが、前回インパクトの中心だったシンジはゲンドウの望む選択をしなかったため、今度は自分が中心となってインパクトを起こすことで、言動の思い描く人類補完計画を完遂しようとしていました。
そこの差異が新劇場版Q以降に表れていたわけですね。
そしてゲンドウは自分とエヴァ13号機を使ってインパクトを起こそうとしますが、旧劇場版でシンジが精神世界で葛藤し答えを出したように、ゲンドウはシンジと対話することを通じて心の葛藤に決着をつけます。
ゲンドウの生い立ちの描写が細かくされており、ゲンドウもまた、思春期的思想から脱却できずにいたわけですね。
そしてラストは旧劇場版とは異なり、世界をやり直すのではなく、エヴァが必要ない世界を創造する(=NEON GENESIS、タイトル回収)ことを選択し、エヴァの存在しない世界でキャラクターたちは人生の先へ歩んでいく...
というストーリーで終劇となりました。
アスカとシンジがお互いに好き「だった」ことを打ち明けたり、アスカとケンスケ、シンジとマリという以外なカップリングで落ち着くなど、これもアニメではあまりない、逆に言えばある意味リアルな「青春」を感じさせられるなと思いました。
アスカ推しだったので少しショックな面もありましたが、糞ヒロインとして名高いヨヨの「大人になるって悲しいことなの」の意味が、今なら少し理解できる気がします。
◯最後に
ここまで読んでいただきありがとうございました。
一人で抱え込むにはあまりに大きすぎる作品で、この感情をどこかに発散しないと居ても立っても居られなくなったのでこうやってブログとして残そうと思いました。
少しでもエヴァンゲリオンを楽しむ材料になったら幸いです。
読んでいただきありがとうございました。
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