3/21 新宿末廣亭下席夜の部 笑福亭羽光 土橋萬歳

新宿末廣亭での主任興行初日、笑福亭羽光師匠がかけた噺は、上方落語の「土橋萬歳」という演目だった。聴くのは初。

師匠の素晴らしい熱演と、照明・音響も駆使したスリリングな演出に惹きこまれ、長尺な演目だったがあっという間に時間が流れた。

そして緞帳が降り、場内が割れんばかりの拍手に包まれているあいだ、私は「いい意味で」厭な余韻に浸っていたのだ。

涙が出るまで笑い転げたり、逆に感動したりといった風な、いわゆるスッキリと観終わった気持ちになれない。どうにももどかしく、何か心に引っかかる、考えさせられる点が残った。

それはこの土橋萬歳という噺がなかなかに奥深いのと、それを演じた羽光師匠の芸もまた存分に奥深かった証拠にほかならないと思っている。師匠が(マクラでも仰っていたとおり)この噺をいま演じたいという気持ちとその企みは、末廣亭の観客に、少なくとも私には、充分伝わったであろう。


落語に出てくる若旦那は道楽者と相場が決まっている。ろくに仕事もせず、放蕩に耽っては主人に怒られ、周囲とトラブルを起こし、それが噺の種になる。対して、だいたい番頭が真面目でしっかり者なことが多い。

だから土橋萬歳という噺は落語でいうときわめて平凡な設定だといえる。最後、番頭の気持ちが伝わり若旦那が「もう遊びはやめて真面目になります」と改心するというくだりも、何ともありふれたものだ。

しかし、この噺が一筋縄ではいかないのは、途中この若旦那と番頭の対立が一線を越えてしまい、悲劇的な暴力に到達してしまうところにある。

番頭に対し逆ギレして、料亭の二階から突き飛ばすという若旦那の非道行為はたしかに許しがたい。だが単純に、真面目で忠義心が厚い番頭が正義で、遊び人でごくつぶしの若旦那が悪かというと、そうではないし、それがこの噺の醍醐味なのかもしれない。

私も噺を聞いていて途中までは「若旦那、なんて非道い奴だ」「番頭も大変だな、かわいそうに」などと思っていた。しかし話が進むにつれ、「この番頭もずいぶん了見が狭いやつだな」と勘繰るようになった。この番頭は自分が正義だと思い込みすぎており、それをいいことに悲劇のヒーローを気取ろうとしてないだろうか?

土橋での追剥ぎのシーンでそれは顕著だった。太鼓持ちはじめ若旦那の取り巻きが一目散に逃げたのを、追剥ぎに扮した番頭は「ふだんは調子いいこといっても、いざとなったら誰も庇ってくれないではありませんか」と、さぞかし取り巻き達の本性を暴いたかのように断罪した。

寄席も静まりかえって、その刹那は迫力に押されて番頭の考えに味方したかもしれない。だがそれも五秒くらいで、若旦那の「あいつら単なる遊び相手だし、そんな命投げ捨てる覚悟なんてないに決まってるだろ」という反駁にあっさりと論破されてしまう。これは若旦那の言う通りであって、さらにいえば主従関係もないんだし、自分の命は自分で守るんだから追剥ぎが出てきたら逃げるのも正しい。実は番頭より若旦那の方が考えがオトナである。若旦那はちゃんとチャラい取り巻きと分かったうえで、割り切って遊んでいるのだ。仕事で食べていくために旦那衆に取り入り芸事に生きる者たちへのリスペクトも感じられる。

対して番頭の発言は、まるでキャバクラの中で「おい!ここの愛はすべて偽物だぞ!」と血相変えて叫んでいるようなものではないか。

かっこよく本質を突いているようでいながら、実は自分の観念的な道徳観プラス思い込みに過ぎない軽い言葉であり、幼稚だ。恥ずかしい。

そもそも座敷に乗りこんでいったり、追い剥ぎに扮して脅したりと、この番頭は気持ちが先走りすぎて行動が過剰である。こんな行動で相手が自分の思い通りに改心するわけがなく、考えが甘い。やはり結局逆効果にしかならなかった。

だが一方の若旦那も、もう少し穏便に交わせばいいものの、番頭の説教に正面から反発し応戦するので、これまた番頭の真面目さの炎に油を注ぎ、逆効果になっている。

こうして二人の対立は平行線のまま、とうとう暴力沙汰となる悲劇が生まれてしまう。

カンカン、ピシピシと鳴り物が鋭く響く音が今でも耳に残っているほどだ。

過ぎたるは及ばざるが如しというが、若旦那と番頭、お互いがもう少し冷静になって一歩引いていたら、あのようなことにならなかったのではないだろうか。


……と偉そうなことを書いておいて、実際は非常に胸が痛い。私もこの番頭だったことがあったし、若旦那だったこともあったからだ。羽光師匠がマクラで「世の中の殺人犯が自分に似ている」と言ったのが反芻され、ゾクっとした。寄席のお客さんの中でも、同じように身に染みて思い当たる節があった人が多かったのではないだろうか。

職場でも、学校でも、家庭でも、飲み屋でも駅でも。真面目過ぎるが故か過剰な正義感を抱き、その思い込みの果てに暴走してトラブルに至ってしまうケースは多い。その逆に、人から自分の非を諭されたのを素直に受け止められず、逆上してすぐ手を出してしまうことだってある。

この問題は、国家や社会レベルでも起こっている。正義を振りかざすこと、それに応戦すること。21世紀の世の中、戦争、核、テロ……暴力は止まらないどころかますます増長しているように思う。各国のリーダーは、自分が正義だと信じてやまない。

コロナ流行禍でマスクをつけていない人や感染対策が不十分なイベントを執拗に攻撃する、いわゆる「マスク警察」があらわれたのも記憶に新しいところだ。

誰しも、心の余裕がない。なにが正解かまったく分からない混沌とした世の中に、それぞれが正解だと信じた正義感が乱立してマウントしあっている。そんな現代社会に、この落語は絶妙なリアリティをともなって響いてくる。

私が終演後に感じた厭な余韻はこのように自分や他人、社会に置き替えて考えさせられたというのが50%。

残りは、単純に船場の播磨家の行く末を案じたのである。

恐ろしい夢を偶然同時にみて、若旦那も番頭もお互いが気持ちを理解して和解したように終わるものの、三つ子の魂百まで。あとは、馬鹿は死ななきゃ治らない。…という法則を私は意外と信じている。

この悲劇は何年後か、または何日後かに、現実となって繰り返されてしまうのではなかろうか?

余計な心配を抱いて、寄席を後にした。

同じ道楽者の若旦那が改心するという設定の大ネタに「唐茄子屋政談」という有名な人情噺がある。羽光師匠の土橋萬歳は、ある意味それと好対照で、独特の余韻を含んだ、まるで笑ウせえるすまん、もしくは藤子F不二雄SF短編集の一節を味わったような、そんな噺であった。

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