えんげき道・対話篇 またはメタパラの2.5人

【REVIEW】お布団『対話篇』(脚本:綾門優季、演出:得地弘基)
2017年03月25日(土)@新宿眼科画廊

 まもなく再演が始まる『対話篇』を観て、狐につままれたような気分になっている人が少なくないかもしれないため、初演にあたって改変されている点を元々の原作まで遡ると、以下のようなプロセスが浮かび上がってくる。

 「青年に害毒を与える」不敬罪により死刑判決を受けたソクラテス。同じ地元の出身で裕福な友達のクリトンが牢獄を訪れ、罰金の支払いを肩代わりするからここを出よう、と説得しに来る場面から彼との対話が始まる。

 これがパラフレーズされた「芸歴10年目の売れない芸人の部屋を売れっ子ピン芸人が訪ねて来る」状況設定のAとB、それぞれの才能とお金の評価が釣り合わない境遇から抜け出すために結成した漫才コンビ・ソクラトンを脱力したノリで演じるのが原田つむぎと小澤麻友。裁判の告発者であり、最初からAの理解を拒んでいる第三者の役割のC(入江悠)はアパートの大家さん等、その都度姿を変えて登場する。
 リプレイの度ごとにいかようにも別の虚構を生き直してしまう「演劇内存在」の悪夢的なエンドレスさ、n度目の無限ループが一つの作品に組み込まれている構造は、同じく綾門優季が脚本を書き下ろし、得地弘基が演出を担当したキュイ『前世でも来世でも君は僕のことが嫌』でも作動していた。

 互いにわかりあえないことによって対話の落とし所を見失っている、「無意味に等しい」かもしれない終わらない時間。「徳の高い人間」の務めとして毒杯を仰いだ哲学者の幸福から飛躍して、「観客の皆さん」に向けて「幸せな嘘をつき続ける才能」の功罪を演説する俳優の台詞が、得地によって再構成された2周目のループ以降は徐々に「行き場のない牢獄」のイメージが「漫才」と「演劇」とそれを見ている「観客の人生」に浸透して重なっていき、演劇が終わっても出て行く場所がない多層化された舞台空間へと転変して響いていく。

 プラトンから綾門へ、綾門から得地へ、この対話篇は三重のプロセスで加工されている。そして実際の上演の際にはそこに書かれていない者のリアクションが返ってくる余地が空けてあるのだ。

 この読み直す/辿り直す連鎖に関して、佐々木敦は筒井康隆の短編で試みられているメタからパラへの移行について“読者が「読むこと」によって生起するフィクションのありよう”だと要約している。なおかつ“その要点は、実際のところありとあらゆるフィクションにあらかじめ内在しているものである”。(筒井康隆は「パラフィクション」を書いたのか?)
 「読まれる」体験のその都度一回限りの「届かないかもしれない」距離を縮めるジャンプ。これはもちろん、書いた本人が過去の作品を読み直す場合でも同じ条件で起きている「リアルタイムの行為」である。

“「だからあとは読者であるあなたにお任せすることにしよう」
 そこであなたが喋りはじめる。”(メタパラの七・五人)

 AとBの対話篇、には常にそれを追う2.5人目の「あなた」が潜在している。
 ここで“「作者」から「読者」へ、すなわち「書くこと」から「読むこと」への重心移動”の演劇バージョンを担う目撃者=観客について別の角度から迫るために、原作に登場するソクラテスとクリトン、を転生させた新人漫才師・ソクラトン、を脚色する劇作家+演出家、に加えてもう一組のコンビを召喚してみよう。

 ここまで読み進めてきた方の中に、綾門+得地コンビと同じく富山県出身の藤子不二雄(AとFが合作していた時代のペンネーム)をモデルにした主人公・満賀道雄と才野茂の二人が師と仰ぐ手塚治虫の後を追って「トキワ荘」へと上京する物語、一見順調に見えてその裏では数々の苦難と失敗を乗り越えてきたビルドゥングスロマンである『まんが道』が、二人の自伝的な「対話」のドキュメントとして描かれていたのを憶えている方はおられるだろうか。(※米沢嘉博による『藤子不二雄論 FとAの方程式』が詳しく論じている)

 さてところで、『まんが道』ほど読者=観客が頻繁に登場する長編自伝漫画もない。手に取って漫画を読んでいるキャラと同じ紙面を読んでいる、というように彼らが熱狂的な勢いで描いてきた・読んできた当時の誌面が模写・転載された漫画内漫画は虚構内の読み手の視点と重なるように二重化され、漫画の神様と崇められていた手塚治虫までが、東京の出版社に持ち込むために満賀と才野=足塚茂道が初めて描きあげた原稿を受け取ってから「ぼくは夢中になって読んだよ」とページと対面する背後に回って「顔を持たない」一人の読者に返っていく姿が想起されている。

 つまりここでも漫画を描く漫画=メタと、主人公二人の物語が手塚治虫の漫画に感激する所から始まったように、戦後まもなくの頃からどの時代でも子供たちの手で漫画が読み継がれていく漫画=パラが拮抗している。そこには読んでしまったから描く、という二次創作的連鎖反応が刻印されている。

“マンガは、小説でも、絵でもない。描かれた線を読むという行為は、瞬時になぞり、描いた人間の意識の流れまでも味わうことだ。マンガは読むという行為が、描くという行為の学習なのでもある。”(藤子不二雄論)

 エッシャーの騙し絵のように「読み手」のページをめくる手がそのまま片隅に描き込まれているパラフィクション的漫画史の相貌。

 だがここで、後に解散する運命を辿る藤子不二雄は『まんが道』を二人で描いたわけではない、という事実に突き当たる。

 作者・藤子Aにとっては、出会った当初からその才能に畏敬の念を抱いていた終生のライバルとの対話を回想する『まんが道』は、藤子Aの視点を通したF批評でもあったのではないか。

 最終的にFが『まんが道』をどう読んだのか?は、ついに謎のままだが、『対話篇』には「演劇の言葉」に対して言葉以外の照明・音響・美術による視聴覚効果を拮抗させることで「読み替え」るパラ的な操作が畳み込まれているのだ。

初出:フリーペーパー「これは演劇ではない」03号(2018年11月1日発行)

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