死別~「あ!」」という間の出来事のその後
転んだあとの不思議体験は、私にとって、不思議というだけでは片付けられない出来事になってしまった。
もちろん、私の周辺にも飛んでもない体験をしている人は山ほどいるし、実際に自分の最愛の夫を脳梗塞などであっけなく亡くしてしまった友人も少なくはない。
そのような体験談の一つに過ぎないのだけれど、
「あっ!」という間があまりにも短すぎた。
そして、また人間のこの肉体というものが本当に入れ物に過ぎないのではないかと思わされるような体験だった。
しかし、そこには、生命維持機能が確実に見られた。
人の死にはいろいろな形がある。
誰一人同じ死に方はしない。
そのことだけは私の中で確固たるものになった。
今の今まで話をしていた女性が、目の前で倒れた。
急いで救急車を呼んだ。
私は他人の家の電話の使い方が分からずパニックになった。
119番が掛けられなかった。
家の住人が倒れた母親を抱きしめながら救急車を要請した。
あちらから「呼吸はありますか?」「気道確保してください」と言われたのだろう。不器用な手つきで顎をあげ、かすかな息を顔を近づけて確認していた。
しかし、オペレーターからは、心臓マッサージの指示はなかった。
そのまま、「救急車の誘導をお願いします」と言われ、私はとっさに立ち上がり、玄関の周辺の植木鉢などをどけ、門を開いて、救急車の来るのを待った。
あの時オペレーターが心臓マッサージを指示していたら、私は手を出すことが出来ただろうか。
息子さんの腕の中にいる女性を引き離してまで、心臓マッサージが効果を出すとは今でも思えないし、それはきっと息子さんに大きな心の傷を残しただろう。
救急車は4分程度で到着したと思う。
その間、倒れた知人のそばにいたのは息子さんだけだった。
私は、何一つ彼女にしてあげられることはなかった。
救急隊が来ても、私は赤の他人だから邪魔者にされ、救急車に同乗することも許されず、彼女は病院につく前に息を引き取ったという。
何もできない。
以前、自死をした三浦春馬さんと竹内結子さんの記事を書いたことがあった。
自ら死へ歩み寄る人もいれば、
人生の砂時計が落ち切った瞬間、
糸の切れたマリオネットのように崩れ落ちる人もいる。
「死とはなにか」とか「何故死ぬのか」ではなく、
「なぜ、私たちは生きているのか」という疑問が生まれた。
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