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シンクロニシティが起きるとき

細かいシンクロニシティが起きているのに気づき始めたときから、少し期待してたところがある。

私にとってエキサイティングな出来事が起きるときは、やっぱり「偶然」に気を取られてしまう。

以前、精神科医から「偶然の一致は日常茶飯事で、ただそれに気が付かないだけ。」と一蹴されたことがあるから、なんとなく「偶然」を「偶然」ととらえ、個別の事象として考えてはいたけれど、やはり時々何かが起きるときは、それなりに特徴のある「偶然の重なり」を感じる。

最近、脳科学、心理学などが一般的に身近になったことから、教科書を読んでいても、色々な情報がアンテナに引っかかるようになった。同時に哲学、仏教学なども並行して学ぶことで、あらゆる角度から一つのテーマにあった情報に出会うことも有り、生体・神経学の教科書でも、章が進むごとに、それに関連した事象が起きた。

脳波、ニューロフィードバックもその一つだし、今回の大きなシンクロニシティが前兆だった「意識」についても大きな進展だった。

学問というものは、一般化することで普遍的な法則を見つけるために、様々な仮説を実験し、論証にまとめ、次世代への足掛かりになるものを残すためにある。そのために、言語も大切になってくるということが最近腑に落ちた処である。

その中で茂木健一郎教授や中野信子教授など著名人がインターネットやTV、書籍を通じて教えてくれることを断片的にだけれど、知識としてためていくことで、他の方の論説なども理解できるようになってきた。

途中で進まなくなってしまった私の一瞥体験と超弦理論について、新たな進展があったので、ここで記録しておくことにする。

あまりにも小さなシンクロニシティが続くので、何が起きるのかわからなかったけれど、ちょっと楽しみになっていた時、以前Djubee についてnoteに書こうと思えたきっかけをくれたZen2.0の三木氏のFBの投稿で、日本に ハメロフ博士が来日して、茂木健一郎教授のクラスで講義をすることを知って飛びついた。(きっかけを掴むとは、ほんの些細な始まりなのだ。そういえば、noteに書いたその記事も、茂木先生の「クオリア」にも関係してたかもしれない。回想)

ドタバタだったけれど、初めて東大の門をくぐり、大きめの講義室に入った。

ハメロフ博士を知ったのは、2014年NHKが制作した立花隆さんの「臨死体験」を 量子脳理論からの仮説としてインタビューに答えたところから始まっている。(NHK ザ・プレミアム 超常現象 第1集「さまよえる魂の行方」、2014 年 1 月11日放映)の再放送を観たのがきっかけだった。


そこで、ハメロフ博士を検索し辿り着いたのが、アリゾナで2年ごとに開かれる「ツーソン会議」という「意識」についての大イベントだった。
ホテルまで予約していく気満々だったところ、コロナが先か、何か別の理由だったかで、渡米をあきらめたことがあった。ハメロフ博士はそのオーガナイザーをされているのだ。

ハメロフ博士は麻酔科医を経て、脳神経科学を研究され、幾度となく患者の蘇生に携わり、臨死体験についても多くのデータを持っているに違いない。

臨死体験は、「悟り体験」「光体験」「エンライトメント」「一瞥体験」「脱落」「解脱」「ニルヴァーナ体験」といろいろな言葉で表現されるものに近いものもあるように語られてきた。

ただ、その個別的体験は、茂木健一郎教授によれば「個人の体験としては真実であったとしても、とても稀な現象であり、再現性がない。それを計測する手段がないため、科学的に証明することはできない。多くの人がトランセンデンタル体験を研究しているので、論文を読んでください」と言われてシャッターを下ろされた気がしたのだけれど、私の中では、ハメロフ博士の量子脳理論に共鳴していたので、「意識」が量子的活動によって存在するとなれば、その次の「意識」自体が物理学として計測可能だということになることは実感していた。

今回、一緒に同行していた日本の研究者は、長くインドで修行をして「意識」というものに精通している方のようで、「悟り」などについてセミナーをしているとプロフィールには書いあった。
その方の脳をスキャンすることによって、量子脳理論は進むことを祈っている。

さて、本番のハメロフ博士の講義は、もちろん東大生や研究者向けなので専門用語は置いておいても生体神経学の科目を受講していた甲斐もあって、大体の見当はついた。

マイクロチューブル(微小管)という細胞の中のタンパク質でできた細胞骨格の一種であり、この量子脳理論では重要な役割を話している。

脳は、化学物質(ホルモン)とイオンチャンネル、電気信号で情報を拡散させて、末梢神経まで脳の判断や体の反射についても説明がされてきた。この量子脳理論ではこのマイクロチューブルでの活動に量子コンピュータ―ほどの情報量を処理しているということだ。そして、シュレーディンガーの猫でも有名な「重なり合い状態」や瞬間移動でも話題になった「量子のもつれ」を中断させ時空構造の破壊を可能にするかもしれないと提案した。その結果「意識」が存在できるようになる、というのだ。

現在どのような実証実験が行われているのかは想像は難しいけれど、脳は量子コンピュータ―のような働きもするというのは、プロ棋士の対局を観てれば想像は容易い。

研究者や学者というのは、本当に地道な実績の積み重ねなのだと感動を覚える。

講義が終わってから「ファンです!」とミーハー根性をだして、記念写真を撮っていただいて、「死後、意識は体から離れ、宇宙に溶け入るという理論が好きです!」と告白できた。

ハメロフ博士から"Good Luck on your study. I hope to see you again"と言われ有頂天になってしまい。。。気の利いたセリフも言えずに、頭をぺこぺこ下げて、帰ってきた次第です。

シンクロニシティのあの独特のクオリアはどこからやってくる意識なのだろうか。

知りたいことが増える一方であるが、シンクロニシティが頻発した時は、身の程を知り、目的を一点に絞ると、完全な幸福感の得れる結果になることは何度か経験しているので間違いないだろう。

ハメロフ博士は「メモリー(記憶)」と「意識」は異なるという。
記憶がなくても意識はある状態が可能だからだと説明された。もちろん記憶がマイクロチューブルなどの構造物に保たれていることはあるだろうけれど、記憶が意識ではない。と明確に区別をして捉えている。

これは言葉の定義の違いによるズレも多少あるからだけれど、パンサイキズムの考えを用いれば、意識はActual Entity(活動的存在)とする粒子が持っていることになる。活動という経験による意識が存在するので、経験は記憶なのではないか、というのが私の説であったが、記憶は「消えることが可能」であり、意識は「残る」という明確な違いがあるように聞こえた。

ついでに、ヌミノース体験をしたことを伝えたら、「あなたがどのような体験について言っているかはわからないが」と前置きし、「多くの人がそれをしている」ことを認めた。私は、その多くの人が何千年も前から体験してきたヌミノース体験が、なぜ「共通性」があるのか知りたいと伝えた。

深層心理学では潜在意識の下の集合的無意識の領域に当たるのかもしれないけれど、量子脳理論であれば、もっと単純に物理的に証明ができそうな気がしてならない。(もちろん、量子脳のプロセスを解明しなければならないだろうから、その言語化がもっとも難しいことを理解した)

ハメロフ博士の講義を受けて、やっと「意識」が科学の土俵に上がったことを実感できて、純粋に嬉しかった。検証が進んでいき、私はまた「遅れてきた青年」のように、時代錯誤の問いに向かって挑み続けるのか、こうした先駆者たちの功績を傍目で見て、分かったような気になるのがいいのか、考えてしまう。すべて顕かであるから。

私の場合、30年も経てば、想像は具現化されることを知っている。自分がやらなくても、他の人が作り出してくれるのだから。ただ待てばいい。というのを子どもの頃から体験していて、ものぐさになってしまった。

何事も、自分で想像し行動によって現実化した方が、途中は苦しくても楽しいだろう。ただ、同じことをやったとしても、その結果の栄光は私には与えられないことも知っている。ビジョンにたいして、プロセスが組み立てられないがために、粗末なつくりになってしまうからだ。

しっかりとした土台の上に、選ばれた材料とそれを組み立てる技術を遣い、学びながら進むぐらいの努力がないからなのだ。

興味を持った時のエネルギーは凄まじいが、持続性がない。
これも、マイクロチューブルの不具合なのだろうか。

成功は、一掴みの幸運と、継続でしかない。

今回のシンクロニシティで、憧れのアイドルにあったような興奮だけで終わらせるのか、学問として研究者の道を進みたいのか、悩ましい。

「私は先生の、死後、意識は人体から離れ、宇宙へ溶け入る、という理論が好きです。信じています。なぜなら私は、それを観たからです。」と伝えた。

問題はそこ。

私が、個人的体験の中で、観ただけでは「こんな夢を見た」というのと何も変わりがないたわごとなのだ。

どのように、それを証明するかをハメロフ博士は検証している。

今は、ビッグバンでさえ、宇宙の始まりではないという説が出ているが、ビッグバンの初期には大量のγ線を放つ光子が放出されたということは解っている。

全ての素粒子の生成過程が判ればさらに腑に落ちるのかもしれないけれど、すでに、これらの複数の素粒子にも素が存在するという永遠の問いになってしまいます。なので、今は素粒子が重要になっているのだと思います。

ここで一つ疑問が起きる。
意識は量子的活動から、時空崩壊を受け誕生し、肉体に留まり、そして生命が尽きると、意識は宇宙に放出され、永続的に残る。という説。

諸行無常ではないけれど、意識が肉体から離れた後、その性質は変化してよい。それは宇宙意識と同質になり、同化していくという理解でよいのだろうか。

この現宇宙の時空とは異なる「  」にあったあの金色に光る大河と大海には、それぞれ異なる性質があった。

意識は大河の一滴になり、我が溶け入り、その先の大海原に広がる。 
そして、我が非我と一つになると無我になり、与えるだけのものになる。
与えるだけのモノというのは、始まりであり終わりのところに残る「最大意識体」=「慈愛」の究極の姿。 それは「誰の」ではなく「慈愛」でしかない。選択するという機能は持たない。

その入り口となる5次元と表現する次元では、物質に引き寄せられる意識と宇宙に放たれる意識がある。

私の認識だと、物質と意識世界との中間があり、それが量子界だと理解している。これがこの量子脳理論で証明されるかもしれない、とトキメキが止まらない。

量子界とその先の知識界は音楽界で繋がっている。

うーん。
全部が繋がってるというか重なってるところが人間界なのだということか。

Sagjo

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