削減経- 仏陀の「瞑想をしなさい」見つけた

『削減経』[1](さくげんきょう、巴: Sallekha-sutta, サッレーカ・スッタ)とは、パーリ仏典経蔵中部に収録されている第8経。類似の伝統漢訳経典としては、『中阿含経』(大正蔵26)の第91経「周那問見経」がある。釈迦によって、サーリプッタ(舎利弗)の弟であるチュンダに対して、瞑想時における戒めが述べられる。 (Wikipedia)   https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8A%E6%B8%9B%E7%B5%8C

ついつい、気になると深みにはまって抜けられない。そして、不思議なことが続き、更に気づきと学びがあり腑に落ちるという体験が続くというまさに螺旋的発展体験。

昨年から少しずつパーリ語から英訳されていた中阿含経を読んでいるところで、それがヴィパッサナ瞑想(というか瞑想と禅の違いも判らなかった)に繋がっているとは全く知りませんでした。

ここではざっくりとサッレーカ・スッタの 一節をご紹介したいと思います。

前程として涅槃への瞑想のなかでは8段階(テーラワーダ仏教のヴィパッサナ瞑想では細かく16に分かれており、またそれを細分かして確認できるステップが紹介されていますが、ここでは8段階を例あげます)

まず、有余依涅槃(うよえねはん)
これは、肉体のある状態での悟り(気づき)

次に、無余依涅槃(むよえねはん)
これは精神の状態での小涅槃

その上に、釈迦が体験した大涅槃は 9段階となり、これは覚者のみがたどり着けるということになっています。

サッレーカ・スッタは煩悩を滅するプロセス

有余依涅槃も無余依涅槃も、「(心の)平静,沈着.安定」の状態である Upekkha(ここでは無関心とは訳さない Equanimity)の状態を一瞬から長時間体験する練習を瞑想で行います。これは心と体の一体感であり、また宇宙とのワンネスを感じる段階としてヨガの世界では 最高峰の状態(ステージ)と考えられていますが、仏陀は、その先の言葉にできない「無記」とした状態(大涅槃)を体験し、そこでは皆一つであり平静であるということが解ったのです。 8段階であっても、認識できる意識(心)の働きがあるため どうしてもすべてを滅しているという状態ではないということから、生きている限り、肉体を持つ「我」というものが現れる。それは「欲」であり「苦の種」だったと仏陀は そこから更に生まれてくるかもしれない種さえも生まれなくするおとが、自我を滅する(滅尽定)へたどり着くために絶対に必要な条件だとし、それを伝えたことが書かれているのが「削減経」ということのようです。

瞑想の4段階では肉体がある状態(色界)でも、後半4段階の精神の状態(無色界)のそれぞれの段階に達するたびに、瞑想者が「あ!自分は、自分の欲から離れ、悟った!」と信じてしまうと、覚った人は「それは違うんだな~」というと、仏陀が説明します。

私の理解では、一段一段昇るというより、螺旋的にぐるぐると上昇している中で、自分は堂々巡りしているような気がしても、横から見てみたら「こんなに上ってきたんだ」と解ります。「ただ、そこがゴールじゃないよね。」と覚った人はそっと教えてくれるので、聞こえなかったり、聞こえないふりして、ある段階に来た時に、それを真理だとして、そこまで体験していない人たちに伝えてしまえば、それが悟りの境地であり、涅槃だと信じる人も出てくるでしょう。

ただし、覚った人はこういいます。「私は知っていることを知っているといい、見えるを見る。彼らに聞いても判らない。私から聞きなさい。なぜならば、彼らはその教えを根拠(因果)を説明せずに教えるからです。私は根拠を説明して教えます。間違った教えだから、彼らの弟子はその師から離れていきますが、私は正しい教えを教えているのですから、私の弟子たちは私を敬愛し、私も同じだけ彼らを敬愛するのです(正しい智慧)」

まだ、涅槃にたどり着いていないにも関わらず、覚ったと信じ込て先に進むことを止め、自分流の教えを伝えている人たちから学ぼうとする弟子たちが去っていくトラブルになった教団の様子を見た修行者が仏陀に相談をしに来たという話が、別の経典(善生優陀夷大経)に書かれています。(正しい智慧は一例で、それを含む八正道を含む37道品に言われる「正しく生きる」ことで、苦しみの種を取り除くことができる伝えました。

少しずれてしまいましたが、大きく分けると、ヒンズー教、ジャイナ教などの思想では、アートマンという普遍的な自我を理解するということ、安らぎと慈愛の至福体験こそが悟りの境地であり浄化された状況をゴールとしていますが、仏陀は「いやいや、そこじゃないんだ。。もう一段先があるんだ」と有余依涅槃も無余依涅槃の8段階にまだのこる「自我」の先の「無我」の9段目(滅尽定)が大涅槃であると仏陀は悟り、「梵天勧請」でもでてきますが、「この教えを聞き入れるには、人々は今まで信じてきた宗教さえも捨てなければならない。」と考え、人々に伝え広めることを迷われたという理由も判ります。(ただ現在は、自分の信仰を捨てずとも、このヴィパッサナ瞑想は誰でも受けられ、その恩恵を受けられるとされています)

さて、で8段目から9段目へ上がるにはどうしたらよいのでしょうか?

そこで「削減経」

チュンダ(舎利弗の弟)が、仏陀に相談しに来ます。(ここで大事なのは、ヴィパッサナ瞑想の指導者研修の時にも、インストラクターから「質問はないですか?」と必ず聞かれます。「自分が知らない、ということを知ること」も大事な要素なのです。仏陀は「知る」ということについて 「本に書いてあったこと、誰かが言ったことをそのまま鵜呑みにすることではない」としています。次に、「そのことを深く考え、気づきを得ることが大切だけれど、それは覚ったわけではない」と言っています。では、どうすればよいのか。そこで出てきたのが「体験しなさい」というお話です。)

仏陀は、生きながら苦から逃れる術を見つけた。それは因果の種を取り除く(サンカーラを滅する)こと、人の心の中で苦しみの種を持たないこと。そのためには、どんなに瞑想(ヨガ修行)をして、8番目の至福の境地にたどり着いても、その種がどっからともなくやってきて(外界の刺激によって自分が反応してしまうこと原因)心の中にあっては生きたままでは涅槃にたどり着くことができない(たどり着いたとしても居続けることはできない)と説き、「無我」となれるよう、体(行動)・言葉・心(思考)を常にモニタリングし、そこに苦の種があるか、種を持ち込まないという選択を繰り返し行い、それが自然に呼吸のごとく心臓の鼓動のごとく行われる状態(無欲)になったとき、涅槃への入り口が開きます。

そこへ足を踏み入れ、すべてが滅した時のことはさすがの仏陀も「無記」として、「自分で体験するしかない」としました。

ですから、とにかく、「誰かがそういったから」とか「本にそう書いてあったから」でも、「その人の体験を熟考して理解した」だけでなく、「自分で体験したものが真実」だといい、サッレーカ・スッタの最後に仏陀は言いました。

「(17にて、私は「滅する方法」を教えた)。弟子を愛する師が、彼らに出来ることはした。チュンダよ。木々の根はある、空いている場所もある、チュンダ、瞑想しなさい。遅れてはならない。後悔しないように。これがあなたへのメッセージです」

18. "What can be done for his disciples by a Master who seeks their welfare and has compassion and pity on them, that I have done for you, Cunda.[27] There are these roots of trees, there are empty places. Meditate, Cunda, do not delay, lest you later regret it.
'This is my message to you.

なぜ仏陀が瞑想しなさいといったのか

仏陀は「自分の体験」こそが真実で、多くを体験し、自分を知ること。その過程を丁寧にたどれば、「無我」に辿り着くことができるというお話でした。

文献参照:
Sallekha Sutta: The Discourse on Effacement
translated from the Pali by Nyanaponika Thera
© 1998


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