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樋口毅宏は村上龍の後継たるか?

80年代後半から90年代始め、日本がバブル景気に浮かれていた時代に、「トレンディドラマ」主演の印象が強い女優の浅野温子と浅野ゆう子を並べて「W(ダブル)浅野」なんて呼んでいた。
ちょうどその同じ頃、二人のベストセラー作家も並び称されることが多く、「W村上」などと呼ばれたものだった。
同時期に若くしてデビューした、同年代の小説家という共通点はあれど、二人の作風は全く異なる。
自分は「静の春樹、動の龍」を両立するつもりで、村上春樹と村上龍の作品を当時からほぼ平行して、時には同時に交互に読み続けてきた。

基本的に「春樹的クワイエット・ライフ」を望んでいる自分は、村上春樹作品の登場人物のようなライフスタイルに憧れ、自身の生活習慣をそれに寄せて行っているようなところがある。
「それがどうした」と「そういうものだ」で、己の置かれた状況を二分して捉え、多くは望むまいと自分に言い聞かせながら「やれやれ。」とつぶやきながら日々をやり過ごしていく。
予期せぬトラブルへの対処がすこぶる苦手で、スリルと興奮に満ちたジェットコースターのような人生は求めていないのだ。

それでも「こんな退屈に飼い慣らされた人生でいいのか、俺!」という焦燥に駆られる時が都度ある。
そんな時には村上龍を読むのだ。
「限りなく透明に近いブルー」や「海の向こうで戦争が始まる」のカオスを傍観者のように見つめて描写するクールな文体は、読み慣れるまでに時間がかかったが、一旦その魅力に取り憑かれると中毒性があった。
その後作家として有名になった立場を利用して、F1やSMやサッカーやキューバ音楽や扱う題材はころころ変われど、自ら熱狂の中に飛び込んでいく中で生まれたドキュメント性のある作品群をリアルタイムで読めたことは、己の人生にもすごく良い刺激になっていた。中でも「テニスボーイの憂鬱」が今でも好きで、「龍作品のフェイバリットを一つだけ挙げよ。」と言われたら、自分はこれを選ぶかもしれない。
もちろん「コインロッカー・ベイビーズ」「愛と幻想のファシズム」「五分後の世界」「希望の国のエクソダス」「半島を出よ」などの代表作には、込められたエネルギー量に圧倒された。
決して暴力的な表現が好きなわけではないが、イマジネーションが現実を凌駕するダイナミクスに引き込まれる瞬間には、やはり痛快さを感じずにはいられない。
春樹作品を読んだ後のセンチメンタルな気分とは真逆の読後感で、「今すぐ何か行動を起こさなければ!」と奮い立たせる力を得られた。

インターネットで拡大する反社会性や、それに伴う引きこもりや援助交際や快楽殺人などの病理など、当時の社会問題はすべて村上龍作品で予言されていたと言われるほど、その想像力は同時代性を獲得していた(後にウイルス感染によって隔離された世界についてまで!)。
しかし、やがて本人の老化とともに作品の刊行ペースも落ち、扱うテーマも話題性を欠き、込められたエネルギーも低下し、テレビの経済番組のホストとしての知名度はあれど、小説家としての存在感は薄れていく。
(それでも「オールド・テロリスト」は久々に「これぞ村上龍!」的な作品を読めて嬉しかった。)

さすがに龍さんも70歳を越えて、もう立派な老人だ。
(「カンブリア宮殿」で滑舌の悪さが目立つ衰えた姿を見るのがしのびない。)
「そうそう、こういうのが読みたかったんだよ!」という新作を期待するのは酷なのかもしれない。
とはいえ、すでに十分過ぎるほどの作品を残されてきているので、今でも過去作を読み返せば、そのエネルギーに触れることはできる。

話は少し脱線するが、自分が不満に思っている事に「龍作品のKindle化が進まない問題」がある。
他の作家に先駆けていち早く「村上龍電子本製作所」を立ち上げ、坂本龍一の音楽を付けた「歌うクジラ」のiPad版など意欲的なコンテンツを発表し、電子書籍に積極的に取り組んでいたはずではなかったか。
権利関係を「G2010」が管理したせいなのか、それが弊害となってか、いつしか電子版の刊行がぱったり止まっている。
むしろ紙の本にこだわっていたはずの村上春樹作品は、今ではほぼ全作Kindle版で読める。出版社主導で電子化されたほうが、文庫化された際に価格も安くなってありがたい。
「愛と幻想のファシズム」や「半島を出よ」などの大長編こそKindleで読み返したいのに、どうなってるんだ。

自分のその「龍作品から刺激を受けたい欲」を満たしてくれているのが、樋口毅宏作品だ。
スピード感のある文体。容赦のない暴力描写。荒唐無稽なスケール感。露悪的なまでの性描写。エクストリームな表現に躊躇がない。

日本でもTwitterが流行り始めた時に自分が真っ先にフォローしたのは、当時の自分のエバンジェリスト的存在であった水道橋博士だ。
長年ブログをこつこつ続けてきた博士が発信するつぶやきからは、サブカル関係の情報が多く得られた。
おかげで「小島慶子キラ☆キラ」きっかけでTBSラジオを聞くようになったし、園子温の「冷たい熱帯魚」きっかけで映画館に頻繁に足を運ぶようになった。
その博士が面白いと太鼓判を押していたのが、樋口毅宏デビュー作の「さらば雑司ヶ谷」で、買って読んみたら…ぶっ飛んだ。
あらゆるジャンルからの引用をちりばめ、虚実ない交ぜ、聖俗の両極端を行き来した、エロとバイオレンスの塊のような物語。
それこそ「これ園子温監督で映画化決定でしょ!」と盛り上がった。
自分と同じ年齢で、しかもサブカルに造詣が深いという作者本人への興味も強かったので、「こんな熱量の高い文章を書くこの人は何者だ!?」と衝撃を受けながら一気に読んだ。
次作の「日本のセックス」「民宿雪国」も刊行済みと知って、すぐに買って読み、暴走する物語の底知れなさに怖れをなしたほどだ(「さらば雑司ヶ谷」の続編の「雑司ヶ谷R.I.P.」ももちろん面白い)。
引用元やインスパイア元にリスペクトを示す、スペシャルサンクスのような巻末のクレジットの羅列を見るたびに、「わかる、わかるよ!樋口さん!」と嬉しくなったものだ。

樋口作品に出会う少し前にハマって読んでいた作家が舞城王太郎で、それこそ村上春樹と村上龍をごちゃ混ぜにして、ゲーム内で雑に展開したカオスような世界観には抵抗しがたい魅力を感じていた。
樋口毅宏と舞城王太郎の両氏に共通するのが、「文学性? そんなもの知ったことか!」と既存の小説への評価を踏みにじらんばかりの暴力性だと感じているのだが、それは作中に暴力描写が多いというからだけではなく、「うるせーな、俺はこれが好きで、書きたいから書いてるんだよ!」というやけっぱちな怒りと、「現実を見てみろ、きれい事で済まされるような世の中か?」という諦めが、書き手本人の意思として文体に込められているからだ。
今のこの時代に生きていて表現に関わろうとする者なら誰でも抱く暴力性で、現に漫画の世界ではドキュメンタリーだろうがファンタジーだろうが、とっくにその残酷さは表現されていて、それが多くの人に受け入れられている。
ただ、こと小説というジャンルとなると、パロディは同人的な範囲に収まり、カタルシスは「泣けるかどうか」の一点に集約され、評価のポイントは「それでも希望を描けているか」という結局はきれい事…という価値観がまだまだ強いような気がしている。
それをぶっ飛ばす勢いの過剰さが、この二人は突出しているように思う。

その点で、最初のうちは舞城作品が意識された樋口作品だったが、「テロルのすべて」「二十五の瞳」「アクシデント・レポート」で歴史の闇にも踏み込み、政治と社会の歪みを白日の下にさらし、その暴力性がさらに大きなスケール感を獲得した今となっては、むしろ「あの頃の村上龍」的な批評性を感じる。世間ではそんな受け入れられ方はしていないのだろうか。
いまだに「タモリ論」の作者としての印象が強くて、ポップカルチャーに詳しい知識人のように思われたままなのかもしれない。

確かに実際に会うと樋口さん御本人からは、そんな暴力性を感じることはなく、腰の低い笑顔の素敵な方で、「どこにあのエロスとバイオレンスのマグマが潜んでいるのだろうか?」と不思議で仕方がなくなるのだが。
私は関係者でも何でもなく、ただのいちファンなのだが、偶然樋口さんにお誘いいただいて酒席をご一緒させていただいたことがある。(その数ヶ月後に、GREAT3のライブ会場で再びお会いして言葉を交わした。コロナ禍で樋口さんが京都に移り住まれる少し前のことだ)
ご結婚されてからの「主夫宣言」などもあって、メディアに出る時は「イクメン作家」などという謎の肩書きを付けられたりもしている。
その育児を理由に「作家引退」まで宣言しておきながら、実はその後もしれっと作品は発表し続けている。

そして最新作は昨年刊行した「無法の世界 Dear Mom, Fuck You」。
また…どえらいもんを、書き下ろしでいきなり投下してくるんだから、もう。
「マッドマックス」のような無秩序の世界でのサバイバルを描いた本作を、自分はたまたま村上龍の最新作「ユーチューバー」と同時に読んだ。
「ユーチューバー」はタイトルからして、「お、今どきの話題も取り入れる元気がまだおありか。村上龍らしさはご健在か?」と期待させたが、YouTubeを駆使して現代社会の闇を暴く動画テロを起こす中学生集団の話…とかでは全然なくて、「ユーチューブを撮ろうと思ってるんです。」と話しかけてきた男のインタビューに答える老作家の回想が軸の連作短編集だった。
村上龍氏の現在を反映していてリアルだとも言えるが、期待をよそにしても、一言で「ぬるい」小説だった。
その一方で、あらゆるバイオレンス映画のシーンを継ぎ接ぎしたようなアクション満載で、無差別に人が犯され殺されまくる「無法の世界」。そこに巻き込まれる登場人物の背景には不幸な出自があり、家族に対する怨念がどこまでもつきまとうという救いの無さ。
これを読んでいて痛快さを感じてしまうという、現在の病んでる度合いを再確認させられた。
相変わらず樋口さんは容赦が無い。

たまたま直接比較しながら読んだので、明暗がはっきり分かれた印象を受けたが、これはあくまでも私個人の感想。
ただ、現実への苛立ちが募り、「何もかもぶち壊してしまいたい!」という破壊衝動に駆られそうになった時、「これからは樋口作品を読めばいいか。」という一つの結論が出たことは確かである。


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