ジョーカー1

【ネタバレ】ジョーカー感想。

  これは僕がジョーカーを観た感想で、観た人向けの内容である。あらすじの説明はなくネタバレも含んでいる。そのことに留意して読んでほしい。ただその割に内容そのもののの具体的な言及はそこまでない(ダメじゃん)

 

 「エモい」とか「尊い」、「クソデカ感情」という言葉を最近よく聞く。ある作品における登場人物の関係性に対してつかわれることが多い。老若男女問わない人と人の間に生まれる感情、関係性にいわば「萌える」という楽しみ方、消費の仕方がここ最近の映画を始めとする多くのジャンルで見られる。オタク界隈では言うに及ばず、日夜ガルパンの誰と誰のカップリングが萌えるか論争してるし、映画クラスタは今は「ワンスアポンタインムインハリウッド」のディカプリオとブラピの関係性(作品だけにとどまらず時には現実の彼らの関係性も対象となる)に「エモさ」や「尊い」を見出してる。いわゆる「関係性萌え」だ。ことツイッター上ではこの関係性萌えの消費が楽しみ方のメインストリームになってると言っていい。

 またきらら系四コマ漫画、アニメ等の「日常もの」に至っては物語性を半ば放棄しこの「関係性」のみを見せてそれを読者が楽しむ構図になっているし、オタク系に限らず「水曜どうでしょう」や「テラスハウス」といった人気バラエティ番組も登場人物たちの誰と誰の関係性を第三者が見て楽しむ仕組みになっている。つまりこの「関係性」は今のエンタメの最も王道的な要素なっており、今のエンタメはそれなしでは語れないくらい「関係性」が重要なファクターになっているのである。


 で、今作「ジョーカー」だが、この作品を一言で言うなら「アンチ関係性」である。重要なのは「物語への回帰」ではなくあくまで「アンチ関係性」であることだ。

 本作では徹頭徹尾、物語の冒頭から最後までひたすら「関係性」の断絶が描かれている。主人公アーサーは登場時から既に社会から孤立した人間として描かれており、そこからひたすら社会から爪はじきにされる展開が延々と続く。

 そこでアーサー自身が他者との関りを希求するならそれはそれで関係性の発生が起こるのだが、問題なことにアーサー自身が他者との関りを自分から遠ざけている節があるのだ。同僚のコメディアンとは大して仲が良いわけでもなく、カウンセラーには文句ばかり、隣人の子連れの女性とは妄想だけの関係、数少ない強い感情をぶつけた他者であるトーマス・ウェインも、直後に明かされた真実によってすぐその感情を手放してしまった。あれだけ愛情で結ばれてたように見えた母すら裏切られたと判断したら即殺してしまい、リスペクトを捧げてたマレーに対しても「バカにしたから」という理由でサクっと銃殺する始末。(ついでだが他作品ではほぼ常に濃密に提示されていたブルース・ウェインとの関係性も、ブルースの両親の死にアーサー本人は関わっていないことから少なくともアーサー視点ではブルースとの関係性は構築されてはいない)

 そこには誰かと繋がりたい、誰かにこの感情を伝え共有したいというエモーショナルさというよりは、自身を認めない、愛さない人間はいらないという冷徹で幼稚な意思を感じ取ることができる。アーサーには「環境のせい」とは言い切れない他者への感情の薄さや、関係性を作ることへの興味が極端に浅いように見えるのだ。

 「ジョーカー」はそうした主人公アーサー自身のもつ関係性の排除志向と、環境が彼を孤立させることによって起こる関係性の排除、このダブル排除によって加速度的にアーサーから関係性を剥ぎ取っていく。そして皮肉にもアーサー自身は関係性をなくせばなくすほど自身は開放され、不格好に階段をトボトボ上るアーサーからRockn'Roll Part2(Hey Song)に合わせて軽やかに階段を踊り降りるジョーカーへと変貌していくのである。多くの作品が「関係性の構築」によって主人公が成長し、英雄となったり開放されていったりするのだが(MCUはほぼ全てそういう話である)、ジョーカーは真逆の「関係性の否定」によって「ジョーカーの誕生」という物語が紡がれるという話というわけだ。その点はヒーロー映画の対極という意味では極めてまっとうなヴィラン映画と言える。

 そして関係性の排除で言うなら、最終的には登場人物ではなく「観客」との関係すら否定するのがジョーカーだ。

 観客は最初こそアーサーの境遇に同情するも、その後には梯子を外されるようなシーンが挿入される。コメディアンを目指すも浮かばれない善良な男……と思いきや証券マンを明らかに過剰防衛で惨殺する凶悪な男……十分に受けられなかった愛情を希求する哀れな男……の一方で前述した他者への独善的な対応の数々等、観客はアーサーに対する共感と嫌悪の間を行ったり来たりさせられ、翻弄された末に、ラストでは微笑むアーサーから「この物語そのものが狂人アーサーの妄想に過ぎない」という可能性すら提示されてしまうのである。まさにそれまでの作品のジョーカーのように、観客を翻弄し嘲笑い突き放しあらゆる同情も共感も拒絶しているのである。

 ジョーカーは一見すれば凡庸な底辺男性ルサンチマンものに見えるが、一つ一つの要素が絶妙にズレを作り、トリッキーな表現を使うことなく観客を揺さぶり、困惑させ、その解釈に明快な答えを与えない。そのためツイッター上の感想は人によってかなり感想が異なっているが、これは同時期に公開された「ジョン・ウィック」や「ハイアンドローザワースト」とは感想の種類が対照的だ。

 後者二つは大まかな方向性において観客の解釈はほぼ一致しており、あとはその流れに従ってそれぞれ個人が発見したポイントを発掘していく作業としての感想が提示されていく。が、「ジョーカー」は(どこまでが制作者の意図かは不明だが)そもそもの解釈から誰もが異なる感想を提示し、議論を引き起こしている。どちらが良い悪いという話ではなく、ジョーカーはそういう種類の感想を観客から誘発させる作品ということだ(ホアキンの演技が良かったという感想はほぼ一致しているが)。

 結論として、ジョーカーは公開前に予想されたようなアンチアメコミ映画でもアンチポリコレ映画でもないが、しかし「アンチ関係性」映画、「アンチエモい映画」「アンチクソデカ感情映画」なのだと思う。

 社会から孤立した弱者を描いた社会派ともとれる今作だが、それ以上に今作で重要なのは、今作が比較的わかりやすい物語でありながら昨今の作品群に慣れた観客に対して共有できる消費の仕方を提示せず、観客が他の作品では見出すことのできた関係性を徹底的に否定することにより、観客は個人個人が自力でこの物語を解釈し自分なりの答えを見出していかねばならない作りになっていることにあると思う。

 それこそが僕がジョーカーを名作と思った理由であり、そしてそうした不誠実とも言える作りの本作が、(ベネチア映画祭グランプリ受賞やアメコミ映画そのものの盛り上がりの後押しを受けたものでもあるが)大ヒットを飛ばしているというのは嬉しい限りである。

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