映画『オッペンハイマー』の登場人物・歴史背景ガイド
「原爆の父」であるロバート・オッペンハイマーを描いたクリストファー・ノーラン監督の『オッペンハイマー』が公開。
時間のギミックや物理現象などを作品に取り入れ「難解」と言われることも多いノーラン映画だが、『オッペンハイマー』も主人公が物理学者であることに加え、物語が複数の時間軸で進むなど、例に漏れずかんたんとは言えない。
しかし今作の難易度を上げているのは、時間や物理の要素ではなく登場人物の多さや背景の複雑さであると思う。とにかく多くそして説明もないので、事前に何も知らないと会話の内容から推測していくしかない。
そこで『オッペンハイマー』をこれから観ようとしている方、また一度は鑑賞したものの知識を入れてからもう一度観ようと思っている方のために、登場人物やその歴史的背景についてかんたん解説したい。顔と名前が分かっているだけでも、映画の理解に役立てていただけるのではないかと思う。
登場人物について
登場人物を「オッペンハイマー家」「恋人・友人/知人」「物理学者たち」「軍・政府関係者」に分けて紹介していく。歴史的な事実なのでネタバレとは言えないが、劇中の大きな出来事にはなるべく触れないようにした。
オッペンハイマー家
1904年生まれの理論物理学者。ハーバード大学を卒業後、ヨーロッパで理論物理学へと傾倒し、その後カリフォルニアで物理学の教鞭をとる。1942年からはニューメキシコ州にあるロスアラモス国立研究所の所長に就任し、原爆の開発・製造(マンハッタン計画)を主導した。
原爆開発の成功によって終戦直後は国の英雄となるが、冷戦への移行期に次なる兵器「水爆」の開発には反対したことで政敵を作り、過去の共産党関係者とのつながりからソ連のスパイであるという嫌疑をかけられる。
その妻で植物学者 / 生物学者のキティ。非常に気性が強く知性のある女性で、それがオッペンハイマーに好影響をもたらすこともあったが、孤独感や子育てのストレスなどから酒に溺れるようになる。オッペンハイマーとの間にはトニーとピーターという2人の子供がいる。
オッペンハイマーと出会った当時は人妻だった(自身と元夫には共産党員だった過去があり、この事実もオッペンハイマーの人生に小さくない影響をもたらす)。
オッペンハイマーの8歳下の弟。兄の後を追って自身も物理学者となり、ロスアラモスではウランの濃縮にも貢献したが、過去に妻であるジャッキーと共に共産党に所属していたことから、戦後は監視対象となってしまう。
ここまででも分かる通り、オッペンハイマーの人生には「アメリカ共産党」の存在が付いて回る。
1929年から始まった世界恐慌以降、米国内でも労働運動や社会改革運動が活発化し、共産党も学生・労働・公民権運動などを通じて広く影響力を持つようになっていた時代であった。そんな恐慌下のカリフォルニアでは、オッペンハイマーのような若い研究者が、知的好奇心から政治活動にも参加することも珍しいことではなかった。
恋人・友人/知人
オッペンハイマーがカリフォルニアで教職をしていた頃の恋人かつ元婚約者で、彼女は政治的な活動に熱心であり、共産党バークレー支部のメンバーでもあった。
またタトロックは、多くの共産党関係者たちを恋人であったオッペンハイマーに紹介する。それだけが理由ではないが、この頃から彼は政治にも大きな関心を持ち始め、「新しい意味の友好関係が好きだった」と後に語っている。
オッペンハイマーがそんな左翼系の人間と多く関わりを持っていた頃、特に親密な関係にあった1人が、同じ大学でフランス語を教えていたハーコン・シュヴァリエだ。マルクス・レーニン主義を支持し、明確な証拠はないものの、共産党員であった可能性が高いと言われている。
オッペンハイマーが生まれたての息子ピーターを預けるほど緊密な存在であったが、シュヴァリエが「ソ連大使館の外交官に、オッペンハイマーの関わる科学的作業の情報を渡してほしいと要請されている」と持ち掛けたことで関係は大きくこじれ、この”シュヴァリエ事件”がお互いの人生に長く後を引くこととなった。
ちなみにこの”シュヴァリエ事件”は原作本において、証言する人間によって内容が異なり、真実が分からないことから、黒澤明監督の『羅生門』的と形容されている。
物理学者たち
オッペンハイマーがカリフォルニア大学のバークレー校で教鞭をとっていた頃、同校にいたもう1人の人気教師がアメリカの実験物理学者アーネスト・ローレンスである。1939年にはノーベル物理学賞を受賞。ロスアラモスでのマンハッタン計画にも参画している。
マンハッタン計画が本格稼働する少し前、トップレベルの理論物理学者を集めて原子爆弾の基本設計を行う際、オッペンハイマーが一番最初に選んだのが、ユダヤ系でナチスドイツから亡命してきたハンス・べーテ。元々はレーダーの軍事利用に取り組んでおり、ロスアラモスでは理論部門の監督に任命される。
ハンス・ベーテと同じタイミングで招集された、ジョージ・ワシントン大学で教師をしていたハンガリー人がエドワード・テラー。「水爆の父」としても知られている。ロスアラモスで原爆開発中の間も「スーパー」と呼ばれる水爆の有効性を訴え続け、戦後オッペンハイマーが「水爆反対」の立場をとると2人は敵対関係となってしまう。
しかしオッペンハイマーにソ連のスパイという疑いがかかると、原子力委員会による聴聞会において、彼に対して水爆の開発を阻害されたと感じ憤慨していたものの、その愛国心を疑ったことはないと証言した。
アメリカの物理学者で、オッペンハイマーの良き友人として度々登場する。倫理的な立場から、ほかの科学者たちと同じようにロスアラモスに住んでマンハッタン計画に携わっていたわけではないが、友を助けるために何度か現地を訪れ実験に立ち会った。
ミシガン大学にてオッペンハイマーの公演を聞き、感銘を受けてカリフォルニア大学のバークレー校へと異動してきたアメリカの理論物理学者。原爆の基本設計を始めた頃から、オッペンハイマーはサーバーに自分のアシスタントとなるように依頼。良き同僚であり相談役となった。
劇中で度々オッペンハイマーを導く指導者のような立場で登場するデンマークの理論物理学者。映画の原案となった伝記では「ボーアは神、オッピー(オッペンハイマーのあだ名)はその預言者であった」というような書かれ方がされている。
ボーアは原爆の技術を一国家独自の機密にすることなく、国際管理下に置くことで軍拡競争を防ごうと考えており、同様に考えたオッペンハイマーもその思想を実現するべく奔走した。
ロスアラモスでの原爆開発には参加していないものの、そもそもナチスドイツに先んじて原爆開発を推進すべきだと、当時のルーズベルト大統領へ手紙を通じて進言したのはアインシュタインであった。
ドイツ生まれのユダヤ人であるアインシュタインは、1933年にヒトラー率いるナチスが政権を獲得すると、激化する迫害から逃れるために祖国を出ることを余儀なくされる。
オッペンハイマーは戦後、ニュージャージー州にあるプリンストン高等研究所の所長に任命されるが、そこではアインシュタインが15年間にわたり教授職に就いていた。映画でも重要な場面で何度か登場する。
軍・政府関係者
アメリカ陸軍のレスリー・グローブス将軍は、オッペンハイマーをロスアラモス研究所の所長に任命した「マンハッタン計画」の責任者。非常に要求が多い厄介な上司として有名だったにもかかわらず、部下からも能力の高さは評価されていた。
グローブスは、オッペンハイマーを所長に任命するにあたって、大きなプロジェクトの管理経験がないこと、過去の左派との繋がり、ノーベル賞を獲っていないこと(所員の中には受賞者も多数いたため)を懸念していたが、オッペンハイマーの愛国心を信じるようになり、結果的にこの任命は大成功だったと称賛されている。
オッペンハイマーに対して好意的なグローブス将軍とは対照的に、その側近のニコルズは彼に対して敵意と悪意を持っており、戦後オッペンハイマーと対立が激化することになるルイス・ストローズ(ロバート・ダウニー・Jr.)の腹心となり、協力を惜しまなかった。
ソ連のスパイ疑惑を持つ人間を調査していた防諜部の将校。オッペンハイマーにも尋問を行い「共産党との関係を未だ持っている可能性がある」と考えていたが、グローブス将軍からの厚い信頼と、すでにマンハッタン計画にとってオッペンハイマーが不可欠な存在となっていたことから、彼を外すことはしなかった。
第二次世界大戦中の長い間、アメリカ大統領としての任期を勤めたルーズベルト大統領がヒトラー自殺の18日前に亡くなり、その後を継いだのが副大統領だったトルーマンである。
オッペンハイマーと周囲の科学者らは先述の通り、原爆についての技術・情報をソ連も含め世界的に開放することで軍拡競争を阻止しようとしていたが、トルーマンは東西冷戦の開始と共産主義封じ込め政策をその基本方針とした。
1950年代、冷戦を背景に共産党関係者を追放しようとする「赤狩り」が活発化する中で、ルイス・ストローズ(ロバート・ダウニー・Jr.)を中心としたオッペンハイマーを快く思わない連中が、再び彼の過去に焦点を当て、国家機密情報へのアクセス可否を判断するため、原子力委員会において聴聞会を実施する。
その聴聞会において(裁判ではないものの)、「被告人」オッペンハイマーに対して、いわゆる「検察官」的な立場としてストローズが採用したのが、苛烈な反対尋問の才能を持つ攻撃的弁護士として評判の高かったロジャー・ロブであった。
オッペンハイマーをはじめ、証人たちを徹底的に問い詰める様子が映画でも描かれている。
その原子力委員会の委員(後に委員長)であり、プリンストン高等研究所の理事を務めていたのがルイス・ストローズ。同研究所の所長にオッペンハイマーを抜擢した。
独力で財を成した自信家のストローズは、少し相手を見下すような態度をとることがあったオッペンハイマーを次第に嫌うようになり、「水素爆弾」の開発を巡ってその対立は決定的なものとなる。その後は徹底的な執拗さで、オッペンハイマーの権威を貶めることに心血を注いだ。
劇中の白黒のパートは「核融合」(水爆のエネルギー源)という題が付けられており、ここでは主にトルーマン大統領の次にあたるアイゼンハワー政権において、ストローズが商務長官に任命されるための承認公聴会が主に進められる。
ちなみにカラーパートのタイトルは「核分裂」(原爆のエネルギー源)。
その承認公聴会に証言者として出席し、マンハッタン計画にも参加していたアメリカの物理学者がデヴィッド・L・ヒルだ。
1945年に当時のトルーマン大統領に対して、日本へ原爆を使用する前に、実証試験で観察された核爆弾の威力をまず熟慮するよう求めた「シラードの請願書」に署名した70人の科学者の一人でもある。
この公聴会は歴史的な事実ではあるが、実は原作となった伝記には書かれていない。この映画の物語をより厚みのあるものにするために、クリストファー・ノーラン監督が自ら足した部分なのだろう。
これでも減らしたのだが、以上が映画『オッペンハイマー』の主要登場人物とその歴史的な背景である。
原作は文庫にして上中下の3冊というボリューム感であり、映画の尺が3時間あるとはいえ、それでも要素が詰め込まれている印象だ(それを感じさせない編集もまたこの作品の素晴らしい部分である)。
かなり速いテンポで物語は進んでいくので、初見の方は置いて行かれないよう注意していただきたいし、2回目以降という方もここまで知った上で観るとまた違った感想となるのではないかと思う。一生に一度の映画体験を、ぜひ実りあるものにしていただきたい。