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空間

スーパーで買ってきた生肉を焼いて食べる。流しに皿やフライパンを置いてリビングを振り返ると、そこには空虚だけがあった。
 この家はとても広い。部屋が3つ、キッチンには流しが2つ、ガスコンロが2つある。部屋をつなぎ廊下も長い。だからといって家具や本がところ狭しと並んでいるわけでもなく、実際に使われているスペースは全体の6割といったところか。3つの部屋のうち1つは物置小屋になっている。
私が暮らしている東京の家に比べると、なおのこと広く感じる。東京の家にはロフトがある分、やや広い感じがするが、実際のところ狭いのは否めない(四年以上住んでいるのだから、とっくに慣れてはいるのだが)。ユニットバスの構成は最悪だし、2階なのに虫も入ってくる。おまけに駐輪場がないから、立地とロフトという以外良い点はない。
 そんな家に住んでいる身からすれば、と思いながら今いる台所からリビングを改めて見渡す。リビングにあるのはテレビとちゃぶ台、そして季節外れの扇風機くらい。高層階なので遠くから車が走る音が聞こえるくらいでかなり静かだ。
ここに父親が1人で住んでいる。今日は所用でいないから、今はこれまた所用で来た僕1人だ。こんなだだっ広い空間にたった1人で父は住んでいる。僕だったら1か月住めば精神がどうにかなってしまいそうな空虚な空間に、親は1人で10年近く住んでいる。誰もいない、ただ広いだけの部屋に僕が1人、父親が1人。

そうだ、ここには余白がありすぎる。

 そう小さく僕はつぶやいた。そしてこの家は「余白」を埋める何かを待ち構えているのだ。僕のような「客人」を迎えるための「余白」。しかしその「客人」は「住人」ではない。その人は儚くもいずれ去ってしまう。そうしたらこの家は次なる「客人」を待つだろう。いつ、どこからくるかわからない「客人」を。そこにいるのは家守一人ただひとりである。
 食事を終え、テレビを点ける。つまらないバラエティー番組は「余白」を埋めるにはうってつけだが、テレビを観る習慣がない僕はなんとなく不快で消した。パソコンを立ち上げ、レポートを書く。カタカタという乾いた音が「余白」にしみわたっては消滅していく。
 シャワーを浴びて歯を磨く。リビングの壁時計を見るが思った以上に夜は更けていない。寝るには少し早い。「余白」という鋳型に薄く、広く、長く流し込まれる時間はゆっくりとしか流れてくれない。リビング向かいの部屋に視線を移すと、窓の外は真っ暗だった。

存在が存在するための舞台がそこに拡がっていた。どんな華麗な舞台でも、役者がいなければただの物置小屋だ。舞台装置はいつか現れる役者のために、静かに眠る。
 神を祀る神殿があった。しかしそこには神はいても敬虔な信徒はいない。誰からも忘れ去られた神は、一人そこに鎮座する。神は嘆くことも憤怒におぼれることも、朽ちることもなく、信仰を待ち続けるのだ。神は孤独だ。

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