『消滅世界』へ

 『消滅世界』(村田紗耶香 2016年 河出文庫)を読んだ。人工授精で子どもを産むことが当たり前となった世界を舞台としたこの作品においては、(解説を記した斎藤環の表現を使えば)「愛」「性」「生殖」がバラバラに人々の意識に根付いている。家庭は夫と妻、そして人工授精で、つまり「家庭の外で」誕生した子どもが愛を育む空間であり、夫と妻の間での性的感情・行為は「近親相姦」としてタブーとされる、そんな世界だ(因みに人々は子どものときに「避妊処置」をし、セックスをしても精子・卵子が機能しない身体にされている)。「生殖」は人工授精という形で、「性」は(我々の世界でいうところの)「愛人」という形で家庭の外にはじき出され(実際作中では主人公と夫それぞれに愛人がいる。しかも両者はそれを不倫だとも浮気だとも思っていない)、「家庭」は「愛」で純化される。そしてその結末は…というのは自分で読んでから確かめてほしい。とてもおもしろい作品である。 

 さて、個人的に一番おもしろい(と同時にぞっとした)この作品のポイントは「家族」の考え方だ。先にも述べたがこの作品において主人公を取り巻いている「家族」とは、セックスをする間柄でもなければその前段階としての「恋」の延長にある、所謂ロマンティック・イデオロギーの上に成る間柄でもない。本作では「君を愛している」と「わが子を愛している」という感情だけで成り立つ間柄を「家族」と呼んでいる。これが結末に向けて結構大事な要素となってくるのだが、ここで私が思ったのは「そこまでして家族を設けたいか」ということである。「君が好きだ」というあの青臭い恋もなければセックスもない、そんなものは「外」に追いやってしまって「愛」を純化させる(『消滅世界』では性欲は自慰で処理するもの、子どもは人工授精でもうける以外にない)。それは「家族」なのだろうか…いや、実際作中ではそれを「家族」と呼んでいるのだが…。
 つまり、もはや「家族」と呼べないようなものを「家族」という概念で捉え、名指すという、偏執病ともいえる感覚が本作に横たわっているのではないか。であれば本作では「家族」という概念は、(読み手の感覚としては)死んでしまっているのに生きている、いわばゾンビのような存在として描かれている。あまりにもしつこくまとわりつく、しぶとすぎる「家族」。
 私にとってこれはゾッとする発見だった。『消滅世界』は「この世界」と全く違う世界を描いているようでいて、実は「この世界」と地続きである。「この世界」においても―そうはっきり名指されるのは近現代のことではあるが―「家族」は人間が人生をかけて形成するスタンダード・規範なのだから。

 『消滅世界』の存在を知ったのは『絶滅へようこそ』(稲垣諭 2022年 晶文社)を読んだからである。その第6章「人間はツルツルになっていく」で『消滅世界』は登場する。人間はテクノロジー・機械(具体例として挙がっているのは脱毛器)を使って、身も心も「ツルツル」になっていく―キレイになっていく、くらいの意味で捉えるとわかりやすいか―というのが第6章の内容だが、最後に『消滅世界』の内容を踏まえた、稲垣諭によるこんなパラフレーズを紹介したい。痛快である。

もしセックスが時代遅れになった世界があるとすれば、
「え?セックスで生まれてきた人はじめて見た」
「動物みたく生まれるんだ」
「どうしてなんの需要見込みもないのに生まれてこれたの?」
 といった会話が、いくぶん差別的なニュアンスをともなって成立するかもしれません

稲垣諭『絶滅へようこそ 「終わり」からはじめる哲学入門』2022年 晶文社 P.120

 

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