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真珠湾攻撃から80年。今こそ知るべき「昭和16年夏の敗戦」

80年前の今日、日本は大きな戦果に沸き立っていた。

1941年12月8日、赤城を旗艦とする帝国海軍連合艦隊は約350機の航空機で真珠湾に停泊していた米国艦隊を航空爆撃した。後に真珠湾攻撃と呼ばれるこの奇襲作戦によって、日本を焼け野原にした太平洋戦争の火ぶたは切って落とされた。(注 戦時中の日本国政府は「大東亜戦争」という呼称で呼んでいたが、ここでは現在の日本史の呼称に合わせ「太平洋戦争」とする)。結果的にはこの作戦は一定の成果を収めたとされ、軍部やマスコミによる大々的な報道によって当時の連合艦隊司令長官であった山本五十六は英雄視されるようになった。しかし、真珠湾攻撃のような明確な戦果を上げていたのは初期だけで、ミッドウェー海戦での敗戦を機に坂を転げ落ちるかのように戦況が悪化した。その後は東京大空襲や沖縄の陥落、ソ連の参戦を経て、ポツダム宣言受諾に伴う敗戦を迎えたことは皆さんもご存知の通りだ。

では、そもそも真珠湾攻撃はどのように立案されたのか、そして何より「太平洋戦争はなぜ起きてしまったのか」考えたことはあるだろうか。こうした疑問を考える上で参考になるのが、猪瀬直樹氏の著作である「昭和16年夏の敗戦」である。かつて自民党の石破茂衆議院議員が国会の質疑で当時の菅直人首相に紹介したことでも知られる本書は、太平洋戦争開戦に至るまでの経緯を今に伝える重要な文献であるといえる。今回は真珠湾攻撃を振り返りつつ、「昭和16年夏の敗戦」を紹介していく。

山本五十六と真珠湾攻撃

山本五十六は戦艦での戦闘が中心だった当時としてはいち早く航空機の可能性に注目し、戦闘機の開発と訓練を進めていたと言われている。そうした開発と訓練が色濃く反映された作戦こそが真珠湾攻撃であった。

航空機の可能性に着目した理由の一つに、日米の圧倒的な国力差を山本が認識していたことが挙げられる。山本長官は米国への留学経験があり、工業が栄えたアメリカの姿をまざまざと見せつけられている。したがってまともに戦っても勝ち目がないことを承知しており、山本自身は対米戦争に反対の立場だったとも言われている。山本長官に限らず対米戦争を避けるべきと考える勢力は海軍には一定数いた。

ところが、米国側からの最後通牒とも言われる「ハル・ノート」が提示されたことで、対米交渉の決裂は決定的となった。ハル・ノートの提示後も野村吉三郎駐米大使が対米交渉を継続していたものの、陸軍大将でもあった東條英機首相でさえ強硬に対米開戦を主張する陸軍内部を抑え込むことは出来なかった。対米開戦の決定を受けて山本長官は「短期決戦で出端を挫き、米国の戦意を喪失させて講和に持ち込む」以外の勝機はないと考えていたようだ。そのための奇襲作戦に航空機が有効であると判断したのだろう。

だが、米国への宣戦布告が真珠湾攻撃の後になったことから「騙し討ち」と批判され、米国の世論は「Remember Pearl Harbor」を合言葉に反日感情の高まりを見せた。「米国の戦意を削ぐ」という狙いは見事に失敗してしまったのだ。そして、山本五十六自身もブーゲンビル島上空で撃墜されて戦死している。

初めから予見されていた「日米戦わば必敗」

上述のような太平洋戦争の経過は、実は開戦前の1941年夏の時点で予見されていた。実は当時の近衛内閣は30代の俊才を日本中からかき集め、首相官邸の裏に「総力戦研究所」を設けてシミュレーションをおこなっていた。これこそが本書で扱われている題材である。

書き出しは執筆時点での首相官邸周辺の風景を描写することから始まる。総力戦研究所は当然のごとく戦後には存在せず、もうそこには無くなったはずの研究所に思いを馳せつつ首相官邸を巡るのである。戦後の高度経済成長を経て経済大国になった日本には戦争の面影など最早消えていたに違いない。そんな時代の日本にありながらもうそこにはない研究所に思いを巡らせると時の移ろいや儚さを感じる一方で、悲惨な戦争の惨禍を回避できなかった無念がありありと浮かんでくるようだ。

このような趣を感じる冒頭から本編に入ると、時代は一気に1940年代にタイムスリップする。軍、官僚組織、民間企業といった出自を問わず集められた30代の俊才たち35名は、日本をモデルとした仮想国で模擬内閣を組閣し、自分が所属する組織の保有するデータを突き合わせて開戦の是非や想定される結果について侃侃諤諤の議論を行った。本書ではこうした流れについて客観的な筆致で、それでも現代の我々が議論の情景を鮮明に想像できるように描写されている。加えて、総力戦研究所のメンバーの個人的な背景についても言及があり、人柄や背景がわかることでより一層没入感を持って議論を理解することができる。さながら総力戦研究所にオブザーバー参加している気分だ。

こうした俊才たちの議論が導き出した結論こそ「日米戦わば必敗」というものだった。「三人寄れば文殊の知恵」などというが、国の将来を担う英傑が集まって議論に議論を重ね、さまざまなケースを熟慮したとしても日本が勝利するシナリオは描けなかったのだ。シミュレーション結果は極めて正確なもので、原爆投下やソ連参戦以外のほぼ全ての事象がこのシミュレーション通りに起こったとも言われている。

このシミュレーション結果は1941年8月に東條英機陸相を含む近衛内閣の閣僚らに発表された。すなわち、開戦を決定した東條英機はこのシミュレーション結果を知っていたことになる。にも関わらず、日米開戦はなぜ回避できなかったのだろうか。

内閣が抱えた意思決定プロセスの問題点

本書では総力戦研究所でなされたシミュレーションの過程だけでなく、実際の内閣での意思決定プロセスが同時並行で書かれている。例えば近衛内閣で陸相を務めていた東條英機が首相に任命された経緯は意外性がある。東條は陸相であった時分こそ開戦を強硬に主張していたが、首相になって以降は開戦を回避すべく奮闘することになる。東條英機は昭和天皇に対して絶対の忠誠を誓っており、天皇の意向が対米戦争の回避にあると知ったことで方針を180度転換するのだ。

ところが、東條英機が首相に就任した時点で既に開戦を阻止することは難しい状況であった。それまで開戦を強硬に主張していた陸軍は統帥権を背景にして内閣の人事にも口を出し、内閣総辞職の引き金を引き続けていた。その陸軍の、それも主戦派の中心にいた東條英機が方針転換したところで、開戦反対の意見を閣内で高らかに言える空気ではなかった対米交渉も難航しルーズベルトの掌で転がされていた状況も重なり、当時の内閣は自国に都合のいいデータに縋って開戦を決断したのだ。こうして総力戦研究所が出した詳細なシミュレーションは生かされることなく終わり、日本は崩壊への一途を辿ってしまった。

今を生きる我々が学ぶべきこと

ここまで聞くと「ひどい話だなあ」と感じるかもしれない。しかし、こういった場当たり的で空気に流される曖昧な意思決定は、現在の日本企業でもよく見られる話であるように感じる。どれだけ優れたデータがそこにあったとしても、意思決定に携わる者がそのデータをきちんと解釈して判断に活かさなければ意味がないのである。にも関わらず、ある種の「空気」に流されて意思決定が進むのはよくあることで、既定路線が悪いと分かっていても大きく変えられないという話は枚挙にいとまがない。

だからこそ今を生きる私たちは、正しいことが何か歴史から学ぶべきと思う。空気感や立場に基づく凝り固まった思考で結論を出してはいけないのはもちろんだし、かといってデータばかりに頼っていては結論をなかなか出せなくなってしまう。データが膨大になった2020年代では、その取捨選択すらままならないことだってありうるだろう。

そんなときに指針となるのが過去の歴史である。80年前の1941年にに日本はすでに「敗戦」していた歴史を我々は学んでいる。振り返ればその原因は明らかなわけだが、歴史から得られた教訓を生かさなければ同じ失敗を繰り返すだけになってしまう。もうここにはない総力戦研究所が今を生きる私たちに確かな教訓をもたらしていることを、本書は深く心に刻みつけてくれるのではないだろうか。

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