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連載「すしの歴史をたどる」⑤「大阪ずし」と「江戸前ずし」

いまでも大阪では「にぎりずし」のことを「江戸前ずし」と呼んでいます。
これは「にぎりずし」が、江戸(東京)から伝わったことにほかなりません。

江戸後期に入ると「すし」は江戸と大阪、双方で独自の発展をしていきました。

「押しずし」から「大阪ずし(箱ずし)」へ

「押しずし」の歴史は古く、その原型は「生成(ナマナレ)」が登場した室町時代に大阪で生まれたとされ、型枠に飯と魚を詰め込む方法が取られていたようです。
江戸に入り「早ずし」の時代になると、ナマナレと同様、大阪では「棒ずし」も型にはめて押し出す手法が多く取られました。

今も全国的に有名な「柿の葉寿司」が登場したのは江戸中期。
発祥は諸説ありますが、有力なのは紀州の漁師が熊野灘で取れた夏サバを塩で締め、峠を越えて吉野川沿いの村へ売りに出かけたというもの。

また、大阪名物として有名な「バッテラ」は、南船場にあった「寿司常」という店が明治24年に考案。酢飯の上に薄く切った〆鯖と白板昆布を重ねて、木枠で押した発展型の押しずしです。
当初は大阪湾でよく獲れたコノシロで作られており、半身を使った寿司の姿が舟のような形をしていたことから、ポルトガル語で小舟を意味する「バッテラ」という名が付いたそうです。

これら型をつかった押しずし全般を「箱ずし」と称する場合もありますが、一般的に「大阪ずし」と呼ばれ、今日も「箱ずし」として残るすしが考案されたのは、明治はじめ頃。

木製の型にエビや魚の切り身と酢飯を重ねて詰め、押して四角い形に整えるすしで、押しずしの派生料理として登場。日常のもてなしを目的とした、タイやエビ・アナゴなどを用いた高級ずしでした。
箱から抜き出したすしを切り分けて提供するスタイルで「切りずし」とも呼ばれ、幾重にも重なる具材の華やかさから、もてなし料理の定番となりました。

現在でも、愛知県から関西にかけての郷土料理として親しまれています。

「江戸前ずし」から「にぎりずし」へ

そもそも「江戸前」という言葉は、江戸湾とそこでとれた魚のことを指しています。

例えばウナギは、浅草や深川あたりでとれるウナギを「江戸前鰻」と呼び、遠方からのうなぎは「旅鰻」と呼ばれ、明らかに区別していました。

江戸に幕府が置かれ、急激な人口増加に合わせて大坂の漁民が佃島に移住するなど、江戸湾沿岸の漁業は大きく発展しました。

江戸湾でとれる魚はタイ・スズキ・ボラ・アジ・イワシ・キス・コハダ・ウナギ・アナゴに、アサリ・ハマグリ・バカガイなど、魚種が豊富。江戸中期になると、これらの江戸前でとれる旬の魚をつかった「早ずし(押しずし)」の屋台が登場。
店で買うより屋台で立ってつまみ食う「江戸前ずし」は、せっかちな江戸気質の町人に大ウケだったようです。
 
そして江戸後期、文政から天保(1818-1844)にかけて、この頃の川柳を集めた『誹風柳多留』にこんな句があります。

「妖術といふ身で握る鮓の飯」

『俳風柳多留』(はいふうやなぎだる/文政年間)

まるで忍術のようにすしを握るさまが表現されています。

ほかにも「握る」と「鮓」の両方が入った川柳が数多く詠まれており、この頃には「にぎりずし」が登場し、すでに大いに流行っていたことがうかがえます。
 
「押しずし」から「にぎりずし」へ。
江戸後期、江戸の市中でついに世界に広がる「sushi」が誕生しました。

この記事を書いてくれた人:江戸川渓谷(えどがわけいこく)
プロフィール:三度の飯とおにぎりが好き。趣味は道の駅めぐりに商店街散策、メタボ対策のトレッキング。うまいものは足で稼ぐのが信条。ゲットした惣菜で晩酌するのが最近の楽しみ。