神=xとした場合

小学生の俺はノートの上で世界を救う旅をしていた。
勇者がいて、魔法使いがいて、盗賊がいる。
魔物がいて、敵軍がいて、魔王がいる。
剣を振り、魔法で火を放ち、村を救い洞窟を探検して宝を手に入れるそんな旅を脳内で描きながらノートにHPやら攻撃力やら敵モンスターを激ショボの描写力で書いて争わせていた。

恐らくその頃遊んでたゲームの設定を丸パクリかつチャンポンして作り上げられた我が英雄譚のゲームシステムは単純で、攻撃力−防御力=与えるダメージという仕組みになっていた。
基本激ヌルゲーでほぼ勇者側がワンパンで敵をブチのめしながら話は進んでいった。
だがやっぱり人間生きていると刺激が、スパイスが欲しくなってくる。
そこで自分的なここぞ!というシーンでバカ強の敵を登場させてみるのだが、知能がまだ星の形のブロックを同じ穴に入れる玩具で興奮してた頃から育っておらず計算ができないため、どうあがいても勝てないステータスを敵に設定してしまう。
まずこっち側最強である勇者の攻撃力より敵の防御力が高いため1のダメージも相手に与えられない。
また相手側の全体攻撃をヨシ!としてしまったために2ターンでどんな行動を取ろうが全滅確定の激アツ虹保留。
あ!ヤバ!と俺が気づいたときにはすでに魔法使いと盗賊は死に、周りは火の海で敵はすでに次の攻撃のモーションに入っている。
死に損なった勇者が思わず目を閉じる。
ここで旅は終わってしまうのか………

この物語において神である俺は、勇者に力を与える。
勇者に眠っていた竜の血がもたらした〈覚醒〉である。
前振りや設定なしのガチンコ本番一発勝負で急に初登場の竜の両親からの呼び掛けで目覚めた勇者がワンパンでハイ終わり。簡単。余裕。雑魚。
ここで一番強えのは神である俺であるという事実を敵に知らしめてこのクエストは終了。
「ナメんな」と吐き捨てて旅は続いていく。

旅の先に行くとそんな暴虐な神であることにも飽きてくる。
強すぎる、というのは虚しいことだと俺はそこで学んだ。
そこで俺はスラムダンクのマットが引かれた学習机の引き出しからサイコロを取り出す。
戦闘システムに乱数を加えることで相手に与えるダメージや技の威力にブレを与えた。
神である権利は俺からサイコロへと移された。
そのシステム変更は戦闘において非常にスリリングな展開を生み、物語の面白さは限界突破でますます俺は
のめり込んでいった。
勇者御一行の強さはインフレしていき、それに合わせて敵ボスもついに何か四天王的な設定のヤツまでたどり着いた。
俺にはこれまでの旅の記憶がある。
それ故に俺は学び、敵の強さ設定も良い感じ。
そうだ、ヒトは過去の過ちから学び、何度でも立ち上がることが出来るのだ。
神から降り、人になった俺はその実感に打ち震えた。

激しい戦いは続き、次の攻撃で勝負が決まるラストシーン。
その結末は神であるサイコロ次第。
俺はそのとき、この世に生を受けてから初めて「祈り」を捧げた。
神に、何とぞ!と手を合わせサイコロを振った。
祈りを受けた神は知ってか知らずかいつもと変わらずノートの上を転がる。
出た目は、ハズレ。
勇者死す。負け。全滅。世界終了。

あ!と俺の脳内が悲鳴を上げた瞬間、俺に力がみなぎった。
神であった頃の記憶による〈覚醒〉。
その瞬間に勇者たちはあたたかい光に包まれ、それまでに受けた傷がみるみるふさがっていくではないか!
その理由として女魔法使いが生まれたときから身に着けてたペンダントが聖なる力を発揮したことにする、と神の力を取り戻した俺は高らかに宣言してこの戦いは幕を閉じた。

激弱な信仰心しかない俺にとって神とは一体何なんだろうか。
俺が、もしくは人が神に祈るときとはどんなときだろうか。
「健康に過ごせますように」「あの人と恋人になれますように」「志望校に受かりますように」「適当に座ったハナハナが千円で光りますように」
自分の力や理解が及ばない範囲、よく分からない「何か」に対して自分に利をもたらしてくれ、と祈るものなのではないだろうか。
「帰りのコンビニでタバコ買えますように」のような自分の行動だけで確実にクリアできる課題を神に祈る人が少ないように。

歴史の中で恐らく人は自分の力や理解が及ばない領域に神を代入することで現実がもたらす様々な理不尽さを飲み込んできたはずで、雨の降る理由が分からないから神に雨をねだり、病気になった理由が分からないから神に祈った。
そしてその結果を受けてまるで「選ばれた」かのような喜びや「見捨てられた」かのような悲しみを感じてきたのだろう。

それならば今後えげつないくらい科学や文明の進歩によってあらゆる事柄が起こる理由や条件が判明して、俺も指のコントロールとサイコロとノートの摩擦などの力学的な知識も得て狙った目をいつでも出せる能力を得たそのとき、この世界から神は消え去るのだろうか。
きっと神は死なない。
人が社会性を持つ生き物で、感情というとんでもない理不尽さが存在する限り神は生き続けるはずだ。
人間はあらゆる事物に対して勝手に感情を持つ。
「可愛い」だの「好き」だの「嫌い」だの「生理的にムカつく」だのと他人に勝手に思われてその思考に沿った行動は自分にも必ず影響を与える。
そこにはきっと理解しきれない理不尽さが永遠に存在するのではないかと考える。

ただ、そんな人間同士の感情がもたらす理不尽な乱数が加わることで、人生はとんでもなく面白いものになっていくことも俺はあのノートの中の戦いで学んだ。
世界は理不尽さという項目に代入された神が与える歓喜と苦痛と、その恩恵に近づくため、もしくは耐え抜くための自分をどう作り上げていくか。
そう考えると次に自分が何をすべきか見えてくるかと思いきや、うーん、あんまりわからなかった。
多分お金を貯めたほうが良いかも。
スリの銀次的な理不尽に備えて。

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