バイパスとやるせない暗喩

日曜の夜。
実家から食料を盗んで帰る田舎の土手はすれ違う車もなく、ただ気だるそうに曇った夜の中に等間隔に並んだ反射板だけが緩やかにくねった道を示していた。
俺も半分脳が自動運転ロボモードになりながら暗夜行路を運転しているとバックミラーにカッ!と一台の車のヘッドランプが反射した。
その光はまたたく間に俺の車に近付いてくる。
頭文字Dなら
「一体何だ……このプレッシャー……!」
ギャオオオオオ プシャアアアア
で次号へ続くのだが現実はバオオオーンとドップラー効果と共に一瞬でブチ抜かれた。
狭い土手道のため追越禁止であるにも関わらず加速したその車はその後時速88マイルを超え、1.21ジゴワットの電流による次元転移を行ったためかゆるいカーブを曲がるとすでにその姿は見えなくなっていた。

a.k.a越後の歩く不空羂索観音菩薩とも呼ばれる悟りきった俺でも車の運転に関しては結構イラッとする。
こういう人は中々多いようで普段は温和なのに運転に関しては狼男のごとく性格が変わってしまうという。

その理由を考えた結果、とある真実にたどり着き俺は思わずハッ!と息を飲んだ。

車というものはしばしば男性の、もっと直接的に言えば男根のメタファーとして扱われるものである。
車=男性器と考えた場合、その荒々しい運転とはこの世界におけるヤリチンそのものではないか!
俺はルールを守って正しい秩序による恋愛こそ誰もが望んでいる世界であり、そんな気持ちはいつか報われるものと信じている。
だが現実はそうではない。そうではないんだ。
ルールなんて後回しでアクティブかつスピーディーに己の感情を優先して行動出来る男根、それがヤリチン。
そして結果的に多くの利を得るのはそういった人々であることは火を見るより明らか。

ならば恋愛弱者である我々にできることは?
車の中で「何だアイツマジ!」と相手に聞こえないところで悪口叩くことだけ。それだけだ。

でも俺のこんな思いをわかってくれる人はいるはず。頼む!
それは俺のもはや祈りに近い感情であり、ただの夢物語でしかないことはもう分かっている。
人はその人の正しさに恋をしない。
むしろ場合によっては正しくないからこそ熱を上げる恋もある始末だ。

それならば学ぶしかない。世に対する不平を口にし続けるよりも自分をどう適応させていくかを考えたほうが幾分前向きな気がする。

まぁ自然な流れの中でいつかは……とか考えるが社会人になると学生の頃にあったクラス替えや進学などで人が混ざり合う環境が生む「自然な流れ」などというものは存在しなくなり、溜まった水たまりの中に固定されてしまうことに気付くべきなのだ。
ヤリチンは自ら水源を求め動き、路を作り出す努力をする天才なのかもしれない。
そんなアティチュードを学ばねば!とも思うが、正直そんな自分になりたくないというのも事実としてある。

どうしたものか……と思索を巡らしたのちに俺は「車」に対してあんまり愛着や興味もなく移動手段としての「機能」程度にしか思っておらず、さらに通勤用に母から譲り受けた「オンボロ」の「小ちゃな小ちゃな」「軽自動車」であることが暗喩しているその「意味」にたどり着いた瞬間、喘息による激しいせきによって目の前がかすんだ。
そこからその事について考えるのは止めることにした。

星も見えない日曜の夜。
差し掛かったバイパスも車は少なく、意図せず遵守された車間距離と言う名のソーシャルディスタンス。
新潟市の動脈であるこの道を照らしている規則的な外灯の光を何となく見つめながらもう少し俺も「車」のことを大事に、そして真剣に考えなければならない、と少しアクセルを強く踏んだ。

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