【9】不登校だった、かつての僕について。そして、2021年の僕からこれからの僕へ。【1986年5月中旬、出られない布団】
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イベントが起きて、学校へ行きづらくなる要素がさらに増えてから、僕はいよいよ学校に行かない子になっていた。
そのような生活を5年間続けてきた中で、僕の一番の理解者は、母だった。
行かないと初めて言ったとき、休むことを受け入れてくれた。言い返したところでこの子は動かない、といままでの子育ての中で分かったところもきっとあったのだろう。
そのあとも、僕の中の考えがまとまっていないなかで、本人の意思を大事にしてくれた。その後、何回か学校に行ってみたりもするが、やはり自分に合っていない、通うことがつらいと感じて、僕が行かないと選択した場合の行動を見守ってくれていた。
母がこのようにしてくれたのも、きっかけとなった担任との話の中で、「これは行かなくていいや」と思ったことがあったということ(高校に入ってから聞かされた)が一つ、それと、不登校の生徒たちの生活や話を聞くことで特別じゃないと感じたことがそうさせたようだ。
ただ、母がそうだったかというと、最初からそうだったわけではない。
小さいころ、布団をたたむのではなく簀巻きのように自分が敷布団を丸めて巻きずしのようにするのが好きだった。妹もやっていた。こんな感じだ。
(もちろんこんなかわいくはない)
ひもも巻かれていないが、マットレスと敷布団を体に巻いて遊ぶのが好きだった。不登校をしてから半月ほどだろうか。昼過ぎに、久しぶりにそれをやったのだった。
「掃除をするからどきなさい!」
布団の部屋は畳部屋で、母はこれから掃除がしたかった。と言ってもやめないでゴロゴロしていたので、母はその上に座ってきた。
小5男子ではまだちょっと母親を跳ね上げるのは難しい。重たいので出られないよー。とキャッキャしていたら、母が静かになり、涙声でこういった。
「自分で出なさい!」
僕の布団の上に乗りながら、涙声だった。
しばらく布団に巻かれた僕の上に座ったまま、動かなかった。
出られないのをわかっていて、自分でやりなさい! と言ってきたのだ。母も登校拒否を始めた息子を理解しようとしていたが、行けない気持ちを跳ね返して強くなれないのか…という気持ちが強かったのだ。
そうでなければ、そのような言い方をしない。
ごめんなさいとでもいったかしたかで、僕は布団から出られることになった。布団は、掃除しやすいように2つにたたまれた。もっと遊びたかったら、その中にさらに入ったり、上に乗ったりもするのだが、そんなことはできず、ただただ母は掃除をしたのだった。
この時点では母も普通に学校に行ける子になってほしかったのだ。それはそうだ。友人付き合いや勉強に一番便利な環境は学校なのはいうまでもないことで、それを恐怖だけでいかないといってしまうのは将来が心配になる。大丈夫なのだろうか、と考えていた。当時はそれが普通の考え方だ。
そのあと、夕飯までの間、母と話をすることができなかった。母は気持ちをどうやら切り替えていたのだが、私の心はあまり晴れなかった。
これ以降、一度母は学校への復学と子供の理解のためにいくつかの本を読んだり、児童相談所に通ったりするようになった。そして、私もそこにいくことにもなっていくのだった。
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