見出し画像

【14】不登校だった、かつての僕について。そして、2021年の僕からこれからの僕へ。【1986年9月〜10月、運動会の期間】

※初めて来られた方はこちらを読んでください

9月、2学期が始まった。
担任は変わっていなかった。まあ当たり前なのだが。

夏休みの宿題は提出していないとか、内容が嫌だとかで休んだ記憶はないので、一応こなしたのだと記憶している。友達とはだいぶ減ってはいたが少しは遊んでいた。

従兄弟が入っていたことから参加していた日曜日のボーイスカウトは続けていた。ボーイスカウトでは、小学校4年生まではカブスカウトといって、青い制服のちびっ子扱いなのだが、5年生から大人と同じ制服のボーイスカウトになれる。それなりに大人に見える服だったと思う。
夏にはキャンプにも行った。ここでは他校の子たちもいるので、不登校であることにあまり後ろめたさはまだ感じていなかった。ボーイスカウトの中では、今で言ういじられキャラだった。いじられかたが嫌な時は、泣いてしまっていた。そういえば、何かと泊まりがけのイベントでは泣いていた。

まあ、いじられキャラなのはどうやらどこにいてもそうっぽいと、今になると思う。誰でもそうだが、苦手なからかい方をするやつはいる。そう言うのが得意なやつもいる。それとの付き合い方、付き合わないやり方を、折り合っていくのだろう。具体的な答えが出ないけど。

スイミングスクールにも週一回行っていた。運動神経はよくない方だが、それでも一応クロール、背泳ぎ、平泳ぎ、バタフライの4つをちゃんと200m泳ぐことができていた。背泳ぎ、クロールのクイックターンも問題なくできた。アップでクロール400mとかをしていたのだ。今はもう体力が持たない。何十年とプールで泳いでいないので、25mも自信がない。バタフライに至っては、十数年前に最後に泳いだ時は前にほぼ進まず、ただ溺れていた。

ともかく、9月がやってきた。始業式の前に、登校するのかを学校側から聞かれた。変わるかもしれない、との説得もあり、僕は登校することを選んだ。

あの時代のあの地域では、秋は運動会のシーズンだ。小学校の運動会といえば、「あかぐみ、がんばってください」みたいに小学生が実況やら誘導やらをする放送である。放送運営は、教師の手を借りつつも、高学年の児童が実施する。放送委員だった僕は、その委員会でいろいろ準備をしていた。

放課後以外にも打ち合わせなどがあるため、授業時間でも教室から離れることができた。つまりは担任と離れることができる(担任は放送委員の担当教諭ではなかった)ので、それまでよりは少しだけ気を張ることもなく過ごせた。

始業式が終わり、9月も中旬になると、運動会の練習の時間も増えた。
当時の運動会といえば、騎馬戦や徒競走、リレーというようなおなじみの競技とともに、マスゲームのダンス(お遊戯)や組体操という団体行動のプログラムがある。

僕はこれが苦手だった。
従うこと、お遊戯すること自体が苦痛なのではない。
従わない子たちがだらだらしたりおしゃべりしたりして、練習が進まないことによって教師に怒られることがとてもいやだったのだ。
ものすごく従順な子だった。当時は言われたことをやるのに関してはなにも思わなかったのだが、それが他の人が従わないことによって進まないこと、それが自分のせいでないのに怒られることが嫌だった。わがままといえばわがままだ。
ここでも、担任の教師は他クラスの教師より、怒り方のレベルが詰めるような感じできつかった。なおさらマスゲームの練習は嫌だった。
それともう一つ、フォークダンス的なお遊戯だと、男女が手をつなぐのだ。これが恥ずかしいので、みんなやろうとしない。目覚めた子もいただろうし、いろいろわーきゃーするものなんだが、当時の僕はとてつもなくそういうのに疎かった。いまも男女の仲(あ、いまは恋愛の仲としたほうがいいか)に疎い。
だから手をつなげと言われてつなぐと相手の女の子につなぐ手を離され、嫌な顔をされたりするのだった。女性が苦手なのはここからだったかもしれない。

まあ、担任の強い怒りはあったが、体育の授業だし、全体授業で他クラスの担任の目もあるので、多少は𠮟り方は緩かった。そういうことで、運動会が終わるまでは、曲がりなりにも学校に行くことができていた。
それでも、学校に行けない状況になるのに時間はかからなかった。そして、「あの人」はこのひと月くらいあとに、家族を驚かせる行動をとってきたのだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?