【7】不登校だった、かつての僕について。そして、2021年の僕からこれからの僕へ。【1986年5月、側溝を眺めて帰る】
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それから2日ほどは通学できていたが、またつらい気持ちになっていった。
登校さえしてしまえば、最後まで学校にいることができた。まだ4年生のころまでのクラスメイトや友達との関係はあったので、休み時間におしゃべりしたり、放課後遊ぶこともあった。
途中で早退することはなかった。つらくて、逃げ出してもおかしくはないのだが、その場から出ていくことに罪の意識があったのだろう。そもそも、あの頃の小学生にとって、学校の教室というものは、例えばトイレに行きたくなってもなかなか言い出せず、途中退席がしにくい場所だったというのもある。
もうひとつ、自分はこのクラスでは成績がよかったのも抜け出すことができない要因だったと思っている。なにせ、手を挙げているので立たされないのだ。「手を挙げたときにも不正解はないので、そのまま授業が進んでいく」ことになる(書いていながら不思議な気分になる文章だ)。
「前線」にいる僕がその状態で退席するのは、教師から自分自身への叱咤や残っている人への文句など、もっと何か言われそうで怖かったのかもしれない。
通っていた小学校は、5年生からは図書委員や保健委員などの学校の委員会に全員入ることになっており、僕は放送委員になった。
ときどき給食の時間に校内放送の担当として放送室で音楽をかけたりすることがあり、その時は給食も放送室で食べるので、担任と一緒の場所にいないで済むのが救いだった。それでも、息苦しさは積み重なって、強くなっていった。
朝になると登校の時間が来る。そうなると、集団登校に参加することが第一関門なのだが、これが勇気が出ない。こわい。他のみんなは関係ないのだ。途中で逃げるわけにもいかない。これもつらさを増していく。
結果、また「行かない」と家族にいうことになってしまった。「宣言した」ならまだ形になりそうな表現だが、気持ちが抱えきれなくて噴き出してしまうように言った、という表現がたぶん近いだろう。
集団登校する妹を先に家から出すようにして、父・母・僕の三人になると、ここからは父親と僕とのやりとりが始まるようになった。
なんとかして行くように言われる日が続いた。「どうしていけないんだ」と言われても、担任の先生が怖いなんて、恥ずかしさと悲しさも混じって言えないのだ。言ったところで変わるわけでもないし。
それでも最初は会社に出勤しなければいけない父は、時間となって、学校に行くように、僕に約束をさせ、母に後をまかせて家を出た。そうしながらも母は、結局休みにしてくれていた。多く僕のことを見ている分、急にこう変わるなんて、なにかがあると感じていたようだ。
ただ、それが続けて何日か起きた時、父親は学校に行くことを約束するよう迫った。今考えると、母の対応が甘いと考えていたようだ。それまで会社優先だったのが、僕が約束までここにいると言ってきたのだと記憶している。
ほんとは自分だけのことを考えれば、ちゃんと自分の言葉で説明できれば、もしかしたら変わっていたのかもしれない。でもそんなことはできなかった。結果、ランドセルを背負い、父と家を一緒に出た。
学校は、駅に向かう父とは、反対の方向にある。角を曲がるまで、父は僕の動きを見ていた。振り向いたらいたからだ。
一応その頃なりの覚悟をして、一人で学校に向かう。最初の信号を渡り、2つ目、3つ目を過ぎたあたりだろうか、学校に近づくにつれ、足がすくむ。まっすぐ歩こうとせず、ナナメに歩いたりし始める。
不安だからまっすぐ目的地のほうに足が向かないのだ。ただ、いかなければいけない、と考えるので、いやいや行っているようにナナメに歩くのだ。
実を言うと、今でも行きたくない場所に行かなければいけない不安なときには、同じ癖が出ることがある。それをやるようになったのはこのころだった。
足がとまった。
それでも学校に向かって歩くようにしてみたり、道の花壇を眺めたりして、少し学校に近づいた。また足がとまった。いつも歩く時の視線の下を見るようにしていると、自然に道の側溝を眺めていた。
側溝なんて言葉は、実は今書きながら調べて知った。「雨がふると水流れるところ」と思っていて、名前なんて知らなかった。
上の写真のように、雨水が流れるようになっている溝のふただ。
当時は今のようにコンビニや駅やパチンコ屋などできれいなトイレが普通に使えるような時代ではなかった。そのため、子供や酔った大人でも、電信柱や側溝で立小便することがおおかった。なんなら、僕はその側溝でも2~3回は立小便したことがある。
また、喫煙所が指定されている時代でもなかったので、店や特急電車、会社内で吸うこともできたり、公園には必ずと言っていいほど灰皿があるのに、歩きたばこをする人も多く、側溝をのぞくと吸い殻がたまっていることもあった。
いつの間にか、その側溝を見つめていた。行きたくない。行きたくない。なんだかつらくて悔しくて、涙が出てきた。
「もうお父さんはいないかな」そう思って、僕は来た道を戻り始めた。今度は斜めに進まずに、まっすぐ。そして家に戻ってきた。
母親には、何も言えなかったが、状況を理解した母は家に上げてくれた。
その日は学校を休み、風邪ばかりの説明はできないので、学校にいけないということを電話で報告していたようだ。母は、この時点で僕が学校に行くのが無理だ、というのを理解していた。
それでも、そのうちもとに戻るだろうともたぶん考えていただろう。ただ、その気持ちになれなくなるようなことが、数日後、自宅の前で起きた。それは、ある大人がクラスメイトに仕向けたことだった。
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