見出し画像

【5】不登校だった、かつての僕について。そして、2021年の僕からこれからの僕へ。【1986年4月中旬、登校拒否開始。クッションのバリケード】

※初めて来られた方はこちらを読んでください

眠れない夜が多いのは、幼少のころから変わらないのだが、そもそも、数日前から憂鬱な気分だった。いや、まだ「憂鬱」という言葉を当時の僕は知らない。「いやだ」が少しずつ、それでも大きく、頭の中を支配していた。

寝るように促されたのか、僕は自分のベッドの中に入った。
宿題をしていない、怒られる、あの勢いで、ということで頭はいっぱいだったが、それでも結局眠りについていた。のちの眠れなさに比べたらよく眠れた方だ。悩みつかれたのだろう。もしくは、あきらめというか、意識下の中で決断をしたのかもしれない。

夜が明けた。朝はいつも通りに起きた。いや、いつも通りになるように起きる演技をした、というような感じだろうか。ギリギリまで気持ちを出したくない。
朝食はどうしただろう。食べたのか、食べなかったのだろうか。よく覚えていない。これからどう行動しようかということだけを考えていた。

学校に行きたくない。行ったら怒られる、あの人に。自分の指示したことができないと必ず怒ってくる、あの人に。
行かなきゃいけない時間が迫っていた。

当時通っていた小学校は、国道など交通量が多いエリアを通るので、事故防止などの観点から、地域ごとの児童が集まって、集団登校をする制度だった。僕の家は学校から最も遠い距離の場所にある。集まらないと投稿できない近所のみんながいる。さらに言うと、僕には当時小学校2年生の妹がいる。一緒に登校をしなければいけない。その時間がもうすぐだ。どうしよう。

衝動的に、でも意を決して、僕は普段と違う行動を起こした。

我が家には、デッキチェアーのようなイスがあった。それには、上に乗せるクッションがついていた。こんなかんじ。こんな感じのものだ。

画像1


この上のクッションを取り上げ、折り曲げて居間の角に壁を作るように隠れるように座った。

そして、「学校に行きたくない!」と言った。
父と母は驚いていた。妹の様子は覚えていない。おそらく同様だったのだろう。

その後の両親と妹の行動はよく覚えていない。必死だった。

どうしたの急に? とか、行かなきゃダメじゃないとか、風邪? とかなんかいろいろ聞かれたような気がする。ただ、母親はたぶん動揺していたし、父は出勤の時間が迫っているため、子供の癇癪が急に起きたことでいきなり遅刻するわけにもいかないだろう。当時の父親とはそんなものである。

なにか行かなきゃダメじゃないか的なことを言って、父は出勤した。

母は、集団登校の遅れがあるので、妹を送り出し、その後、行く気がないことを察してか、欠席の連絡をしていた。発熱の扱いとかの嘘をついたのだろう。

僕は部屋の隅でデッキチェアのクッションを強くつかみ、震えるようにしていたと記憶している。自分の恐怖心を、家族に見せる恥ずかしさもあったのだろうか。なかなか思い出せない。その時のことを思い出すと、なぜか今の記憶はカメラを母親の後ろから僕に向けて撮影をしているシーンが浮かんでくる。実際の自分はそうやって震えながら家族しか見ていないはずなのに。

とりあえず、そこから動くように促されたのだろうか。ご飯を食べたのか、トイレに行ったのか、よく覚えていないが、バリケードにしていたクッションから僕は出て、食卓に座った。
母親は息子の行動について、質問をしたのだっただろうか? そのうち取材してみるつもりだが、母も覚えていないかもしれない。発熱もないことを確認すると、今日は行かなくていい、と母は正式に判断した。

明日どうするかなど考えず、今日とにかく行かなくていいことにほっとした。自分の部屋に戻ったかなにかして、午前中を過ごした。

学校側ではまだ、風邪ということで休んだ認識のままである。学校側が不登校を把握するのは、その数日後のことだった。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?