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【6】不登校だった、かつての僕について。そして、2021年の僕からこれからの僕へ。【1986年4月中旬、最初の家庭訪問とつかの間の普通の授業】

※初めて来られた方はこちらを読んでください

休んだあとの午後にどうしていたかはあまり覚えていない。安堵感と「明日どうしよう」が頭の中で回っていたのだろう。平日の昼ご飯を家で食べることに不思議さを感じていたような。でも風邪でもないし。

それでも夜になると不安が襲ってくる。同じような夜を過ごし、昨日の宿題もせず、登校拒否開始の翌日も、同じようにバリケードを作って休んだ。

そういえば、登校拒否を始めるまで、両親に学校のことを相談した記憶はない。大した悩みがなかったからだろうか。友達とけんかをすることもあまりない子だったからだろう。
からかわれるとすぐ泣く子だったので、いじられキャラのようなものだったが、それがとてもつらいというわけではなかった。いたずらがしたくてしょうがないという性格の友達がいて、そいつが友人宅、というか我が家からいたずら電話をかけようとしたことがあったが、さすがにやめさせたし。

家族からの子供のころの友人やクラスメイトへの介入は、初恋の告白を匿名の手紙でやろうとしたのが見つかって怒られたくらいか。小4の冬のことだったか、なんか恋人を作ろう的な空気があり(思春期の始まりですね)、同じ幼稚園だった近所の子を「好きになること」にした。要は恋をあまりわかっていないのだ。ただ、秘密を持つことのドキドキは感じられた。で、クリスマスにサンタクロースと匿名で手紙を出して告白しようとしたのだが、その手紙が見つかって怒られたのだった。
母親はこういう卑怯さを嫌う人だった。告白の記憶がないから、あの手紙、結局出してなかったんだっけ。おぼろげな記憶の部分と強烈な記憶の部分がごちゃ混ぜになっていく。年を取るというのはそういうことなのだろうか。

話をもとにもどそう。

ともかく、あまり介入されたという意識を持たないまま自由に育ててもらっていたのだが、それが続いていくとさすがにまずいことになる。我が家は三世代同居で、隠居している祖父母が不思議に思うのは当たり前だ。父親は帰りが深夜になるほど忙しい人で、教育面は母に任せっぱなしだった。僕が寝た後に、学校に行かせるように話をしていたのだろうか。
とにかく家族全員、息子がこんなことを起こすまで「学校に行くのが普通」と当たり前のように考えているので(実際やった本人だってそう思っている)、いよいようちの息子が学校に行きたくないといっている、と母が学校に相談したらしい。

おそらくその翌日、午前10時前くらいに担任が自宅までやってきた。笑顔だったがいい気分ではない。登校意思はないが、行かないという時間をできるだけ遅らせたくて、パジャマから着替えることはいつも通りにしていた。なので顔を出すことはできる。まあ、あいさつはする。

担任からはみんな待ってる的なことを言われて、登校を促してきた。せっかく迎えに来てもらったから的な空気に押され、担任の言うことを今回は聞くことになった。ここまで来られてしまうと行かざるを得ない。

通学までのあいだ、たわいもない話をした。内容はもう覚えていない。みんな心配しているよ、などと言っていたような気がする。4日程の休みは心配するというのはわかるが、ただのプレッシャーだ。例えが悪いが、ヒビくらいの骨折程度でも、全員が心配なんかしない。子供でも大人でもそうだ。関心ない奴の心配なんかしない。まあ、そうでも言わないと話が持たなかったのだろう。
子供と大人でも、関係性がよくなければ会話というのはそういうものだ。担任にすれば、拒否された生徒の心情を理解しないといけない意識でもあったのだろう。学年主任レベルまでは把握されているだろうから報告も必要だったのだろうか。

結果、いまさら踵を返して家に帰ることもなく、途中で立ち止まることもなく、2時間目の終わりあたりで学校に到着し、その後の授業を最後まで受けた。なんで休んだのかはわかっていないクラスメイトもいたかもしれない。詳しく聞かれたかは覚えていない。友達のだれかは大丈夫?的なことを聞いたかもしれないが。

この日の授業は、どの教科でも「かつて受けたことのある、ドラマでも出てくるような、小学校の授業」だった。彼女の最初の授業からすれば「普通」だ。ただ、その前のやり方を知ってしまっている以上、彼女の授業としては普通じゃなかった。

そのことが分かったのは翌日のことだ。休み癖(言い方が悪いが、ご了承を)がつく前に登校できるようにするのは通学再開に効果的だ。恐怖心がそれまでよりなかったことや、父親が強く促すこともあって、僕は登校することにした。

その日の授業は一時間目から、「彼女の普通の授業」だった。挙手できる子だけが座って授業を受けられ、挙げない子は出来ない子として起立する→後ろに教科書をもって立たされる、あの授業が展開されていたのだった。
大人になって、こう書き記していると不思議に思うことがたくさん出てくる。前日は何があったのだろう? 何かほかの接し方があるのか考えたからあのような授業だったのだろうか? 連れ戻した生徒を帰らせるようなことがあっては、学校内の立場や、彼女のプライドにかかわるからだったのだろうか? 

とにかく僕を含めた彼女のクラスは、戦場のような授業を、また受けることになった。

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