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【15】不登校だった、かつての僕について。そして、2021年の僕からこれからの僕へ。【1986年10月、目覚めたらそこにいた。】

※初めて来られた方はこちらを読んでください

運動会が終わり、学校は通常の授業に戻った。担任である彼女の授業は相も変わらずで、僕はその恐怖心がぬぐえず、それに代わるほどの学校に行く理由も見つけられず、また不登校になった。

最初のころは、行かないで家にいることも罪悪感と恐怖心で落ち着かないことも多かったが、少しずつ、恐怖感がなくなっていった。学校のある日は、風邪のときしか見られなかった「笑っていいとも」を普通に罪の意識なく見るようになった。夏休みの予定がない日はお昼に見ているから、その延長だったけれど、その時と同じように楽しくみられるようになった。所ジョージの「所さんの頭、悪いんじゃないの?」や明石家さんまとタモリのフリートーク「日本一の最低男」が面白かった。

それから、新聞を隅から隅まで読むようになった。文字を読むという行為が好きだった。習ってない漢字も新聞で教わった。しまいには何が書いてあるかまったくわからない株式市場のところまで読むようになった。
つまりは、とにかく暇なのだ。

そのほかの遊びもするようになっていった。一人遊びが増えていった。我が家は祖父母、両親、僕と妹の3世帯家族なのだが、そのうちに祖父の部屋にあったソリティアと、銀行のノベルティとしてプレゼントされた、立体ブロックパズル(さらにそのブロックの一つが貯金箱になっている)で遊ぶのが日課のようになっていた。

小3の後半くらいから買い始めていた週刊少年ジャンプはまだ毎週買い続けていた。ドラゴンボール、ハイスクール奇面組、シティーハンター。黄金期だった。友達と遊ぶことは、少なくなっていった。

そのころ、初めて自分で料理を作ることを覚えた。最初は目玉焼きくらいだが、卵焼きになり、ゼラチンを買ってもらってオレンジジュースでオレンジゼリーを作ったりした。そのうち、自分でカレーライスを作るようになった。豚肉と野菜を炒めて水を入れて煮込む。ルーを入れる前に煮立ったお湯をちょっと飲んでみるとおいしかった。出汁というかスープの味を知るのがこの時が最初だったと思う。

とはいえ、毎日登校することがないということは、外に出て体を動かすことが減るので、疲れることがない。いままでのように夜になると寝られるようにはならなくなる。少しずつ、眠れなくなった。逆に、昼間に暇すぎて、小学生になってからは一切していなかった昼寝をすることが増えてきた。

そんな日を過ごしていたある日、昼寝をしていた。そして目が覚めた。

そこに担任教師がいた。
え? なんで僕の部屋にいるの? ここ、2階だよ?

目が覚めた僕に、心配しているぞ、みたいなことをいいながら、いま何をして過ごしているかとか、いつ頃来れそうか的なことを聞いていたように記憶している。ねぼけまなこだから、わけもわからず、質問に答えていた。

ひとしきり話をすると、担任は帰っていった。そして、不思議に思った。

いつからいたんだろう? 起こされた記憶はない。そこにいたのだ。

その1か月くらい前から、放課後になると担任は家に家庭訪問をしてきていた。最初は母もいて一緒に話をしていた。そのあとも何度も来ていて、母はそのうち僕を同席させないようにしていたようだ。僕の部屋は2階にあったので、部屋で本を読んでいたりしたら帰っていったらしい。ここでの母と担任との話のなかで、僕が「この人の授業を受けたくない」ことを理解したようなのだ。それから、母は僕と担任を会わせないようにしていた。会いたいといっても断ったらしい。

ただその日、母は出かけていた。担任は応対した祖母に入れてくれと強く訴えたようで、家に入れてしまったことを、高校生になってから知った。

家に上がると、そのまま担任は僕の部屋に入っていった。
実は2階は広めの部屋を僕と妹の部屋にしていたが、区切りはタンスになっていて、ドアはなかった。なので、ノックもなく入ることができたのだ。思い出したが、僕の学習机の椅子に座っていた。

なかなかな人なのだと思う。いま思い出すと、とても怖い。
この一件以降、祖母には勝手に家に入れないようきつめに言ったらしい。それから、担任が僕の家に来ることはなくなったと記憶している。少なくとも誰もいないところで一対一で会うことはなかった。

それから2学期が終了するまで、僕は学校に行くことはなかった。

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