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【15】不登校だった、かつての僕について。そして、2021年の僕からこれからの僕へ。【1986年10月、目覚めたらそこにいた。】
※初めて来られた方はこちらを読んでください 運動会が終わり、学校は通常の授業に戻った。担任である彼女の授業は相も変わらずで、僕はその恐怖心がぬぐえず、それに代わるほどの学校に行く理由も見つけられず、また不登校になった。 最初のころは、行かないで家にいることも罪悪感と恐怖心で落ち着かないことも多かったが、少しずつ、恐怖感がなくなっていった。学校のある日は、風邪のときしか見られなかった「笑っていいとも」を普通に罪の意識なく見るようになった。夏休みの予定がない日はお昼に見ている
【14】不登校だった、かつての僕について。そして、2021年の僕からこれからの僕へ。【1986年9月〜10月、運動会の期間】
※初めて来られた方はこちらを読んでください 9月、2学期が始まった。 担任は変わっていなかった。まあ当たり前なのだが。 夏休みの宿題は提出していないとか、内容が嫌だとかで休んだ記憶はないので、一応こなしたのだと記憶している。友達とはだいぶ減ってはいたが少しは遊んでいた。 従兄弟が入っていたことから参加していた日曜日のボーイスカウトは続けていた。ボーイスカウトでは、小学校4年生まではカブスカウトといって、青い制服のちびっ子扱いなのだが、5年生から大人と同じ制服のボーイスカ
【13】不登校だった、かつての僕について。そして、2021年の僕からこれからの僕へ。【1986年6~7月、石川先生のところで】
※初めて来られた方はこちらを読んでください 同時期に僕は、母に連れられてある精神科医のもとを訪ねていた。 石川憲彦先生。 小児科医で、当時から障害児医療の傍ら、不登校についても当時から臨床でかかわられており、不登校・登校拒否に関する著作もある。 母が、シューレから聞いたのか、おはようジャーナルなのかは不明だが、どこかから調べて、この先生のところに僕を連れてきたのだった。 この当時はまだ学校恐怖症という名称も一般的に用いられていたため、アドバイスができるのは精神科医、もし
【12】不登校だった、かつての僕について。そして、2021年の僕からこれからの僕へ。【1986年6~7月、東十条・東京シューレ】
※初めて来られた方はこちらを読んでください クラスメイト集結の事件から、ひと月ほど経ったころ、僕は市の教育相談所のほかに、もう一つ母に連れられてある施設を訪れていた。 その施設は僕の住む市内にはなく、電車に乗って移動することになった。夏休みや課外授業・遠足でもない平日に、午前中の電車に乗ることなど、当時の僕にはほとんどなかった。 一度、不登校になる前の夏休みの時期だったか、父が仕事に必要な物を忘れたことがあって、母も用事があったためその忘れ物を届けに一人で電車に乗って、
【11】不登校だった、かつての僕について。そして、2021年の僕からこれからの僕へ。【1986年6~7月、テレビゲーム6を指導できない教育相談所】
※初めて来られた方はこちらを読んでください クラスメイト集結の事件から、ひと月ほど経ったからだろうか。 毎日朝が来るのがいやだったことくらいしか覚えていない。 普段夏休みや風邪で休んだ時しか見られない、笑っていいともを見ることに不思議な気持ちがしたり、今みんなは授業受けてるんだなあ、とか思っていたりしたが、徐々に暇だからマンガを読んでみたりし始めたころだろうか。 それまでの友達とも、ときどき遊んでいたような気がする。強烈な記憶以外、なかなか普段のことは忘れてしまう。そ
【10】不登校だった、かつての僕について。そして、2021年の僕からこれからの僕へ。【1986年5月中旬、自転車巡回するおばさん。】
※初めて来られた方はこちらを読んでください 寝苦しい、眠れない朝は続くものの、朝に起きることは起きて、いけそうなときは集団登校には入らず登校してみて、つらかったら帰ってくる。 もしくはもう行かないと宣言していかない。それが続いていた。 そうした日々をすごすと、午前中が特に暇になる。家にいてもマンガ読んででも気が晴れないし、すぐにファミコンやるのもなんだか反省していない(反省するつもりもないが)ように見られるのがつらい。 そこで、午前11時ごろだったか、家から出て散歩するこ
【8】不登校だった、かつての僕について。そして、2021年の僕からこれからの僕へ。「1986年5月、押し入れの中から聞こえた言葉」
※初めて来られた方はこちらを読んでください それは、改めて学校に行かなくなってから数日がたったころだった。 相変わらず父親は「今日は行くんだぞ」といいながら家を出た。ちゃんと家を出る息子を見送ることはいったん諦めていた。妹は、いつもどおり集団登校の場所に向かった。 妹があの時、何を考えていたのだろう。当時は今以上に自分のことだけしか考える余裕がなかった。不登校(登校拒否)が終わったあとも当時どう思っていたかはあまり知らないし、かといって改めて聞くのも恥ずかしいし。 特に
【6】不登校だった、かつての僕について。そして、2021年の僕からこれからの僕へ。【1986年4月中旬、最初の家庭訪問とつかの間の普通の授業】
※初めて来られた方はこちらを読んでください 休んだあとの午後にどうしていたかはあまり覚えていない。安堵感と「明日どうしよう」が頭の中で回っていたのだろう。平日の昼ご飯を家で食べることに不思議さを感じていたような。でも風邪でもないし。 それでも夜になると不安が襲ってくる。同じような夜を過ごし、昨日の宿題もせず、登校拒否開始の翌日も、同じようにバリケードを作って休んだ。 そういえば、登校拒否を始めるまで、両親に学校のことを相談した記憶はない。大した悩みがなかったからだろうか
【5】不登校だった、かつての僕について。そして、2021年の僕からこれからの僕へ。【1986年4月中旬、登校拒否開始。クッションのバリケード】
※初めて来られた方はこちらを読んでください 眠れない夜が多いのは、幼少のころから変わらないのだが、そもそも、数日前から憂鬱な気分だった。いや、まだ「憂鬱」という言葉を当時の僕は知らない。「いやだ」が少しずつ、それでも大きく、頭の中を支配していた。 寝るように促されたのか、僕は自分のベッドの中に入った。 宿題をしていない、怒られる、あの勢いで、ということで頭はいっぱいだったが、それでも結局眠りについていた。のちの眠れなさに比べたらよく眠れた方だ。悩みつかれたのだろう。もしく
【4】不登校だった、かつての僕について。そして、2021年の僕からこれからの僕へ。【1986年4月中旬、できない・わからないと言うことの怖さ。】
※初めて来られた方はこちらを読んでください 小学校に入る前のことを少し思い出した。 (この連載、時系列が急に変わることがあります、ご理解のほど) 思えば、小さな頃から、失敗することが怖かった。 もう少し正確に言うと、失敗によるペナルティがあると、それを思ってしまうだけでオドオドするような少年だった。 クイズ番組が好きだったのだが、ブザー音がこの頃くらいまですごく怖くて、間違いが出るかもしれないと思うと耳を塞ぐほどだった。 ブザー音に耳を塞ぐのは小学校高学年くらいから無