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答えが求められるからこそ、数字に敬意を

エピデンスで殴るという言葉が注目されましたが、そもそもエピデンス自体があやふやだったらますます地獄。

科学的根拠の取り扱い方が受け手の分別にゆだねられてるからこそ、科学的根拠を発信する側は気をつけたいよね、ってだけの話です。

「9000回」…?

ライターの仕事をはじめてまもないころ。あるコラム記事のために「人間が1日にする決断の回数」というものを調べていました。

「9000回」

ひとまず「決断 回数 1日」とかで検索すると、山のように「9000回」とするコラム記事ばかりでてくる。まぁ、9000回って「なるほどなぁ」も「びっくり」も両方ある絶妙な数字です。うん、十分面白い。

しかしながら、どの記事にも典拠がない。

あれー、この「9000回」って数字どこから出てきたのー…。

頭をうんうん悩ませつつ、「9000回」の根拠を探そうと悪戦苦闘しました。かばんの中も机の中も探したけれど見つからないので、まだまだ探す気でした。それより僕と踊りませんかという井上陽水の誘いも断って探しました。

数時間後、お手上げ、万歳。ピーキーすぎて俺には無理だったのか。

もうだめ「AKIRA」読もう。と諦めかけた瞬間に、思いついたことがあります。多くの人が資料の選択肢に入れているもの。ライターをはじめたての自分が選択肢に入れていなかったもの。

「海外の論文とかサイトとか、調べればよいのでは…?」

会話はパッションで通じ合う程度の英語力しかありませんが、幸いなことに読むだけならそれなりにこなせます。よし、心機一転頑張るぞ。時間がかかるかもしれないけど、頑張るぞ。

「decisions a day」

それいけ!

35000回ですってよ!

秒でわかりました。「35000回」です。

拍子抜けするくらいあっさりとたどり着きました。ケンブリッジ大学のバーバラ・サハキアン教授の「Bad Moves」で明らかにされてることも含めてあっさりでした。ドラクエⅤでいうと、ゲマ戦の盛り上がりあとのミルドラースの弱さくらい拍子抜け

もちろん「9000回」について、あらゆる可能性を徹底的に調べ尽くしたかと問われれば、自信をもって頷くことはできません。ただ、やっぱりこうまで出てこないとなると、どうにも数字ばかりが一人歩きしてしまった感が否めない。

「9000回ってなんかサイトに書いてあるから9000回なんだろうな、書いちゃえ!」
「みんな9000回って書いてるから9000回なんだろうな、書いちゃえ!」

みんなが、とかおこがましいこと言えないです。でもこんなふうに書いちゃったパターンもあるんじゃないのかなぁ、とはちょっと思っちゃいます。

数字への敬意

前提として、コラム記事で求められるのは「答え」や「処方箋」であるという認識があります。(もちろん、このこと自体についても思うところはあるのですが、また別の機会に書かせていただくとして)

読む人の多くはなにか自分の疑問や悩みについて「答え」を求めて検索をして、サイトをみる。コラムを読む。だからこそ有用な「答え」を用意するのは大切な仕事。

「答え」が求められるからこそ書く側は「数字」のような単純明快な答えについて、こと慎重に取り扱わなければいけないと強く思います。

でも何より思うのは、ですね。

そもそも僕たちが今こんなにも、多くの情報が簡単に手に入り、専門的な知識にもアクセスできて、なろうと思えば誰でも明日から「ライター」になれる、なんて時代に生きていられるのは。

人間の心のこと、身体のこと、脳のこと。
世界のこと。

それらを必死になって、解き明かしてくれた人たちがいるからなんだっていうことを忘れてはいけないように思うのです。

だからコラム書くときこそ、数字に敬意を。

先人が解き明かした、世界の定理、人間の不思議。「たしかだと言えることを知る」ということが、せめてもの敬意だと思う。その数字のうしろには、解き明かした人の情熱と人生があるんだってことを、忘れないようにいたい。

せめて、たしかでないことには「たしかかわからない」と添えるくらいの分別、持ってもいいのではないだろうか。

ここまで書いて9000回がめちゃくちゃ根拠ある数字だったらほんとごめんなさい。

あと「目標を紙に書くと収入が10倍になる」(ハーバード大学)もめちゃくちゃ広まってますけど、今では「神話」「都市伝説」扱いされるくらい資料や根拠がなにも残ってないそうです。面白いんですけどね。すぐ面白がれる世の中だからなおのこと、慎重に楽しみたい。

お読みいただきありがとうございます!



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