村上春樹論〜『1Q84』を最高到達点として〜後編

2章:『1Q84』論~他作品との関連性から見た一考察~

 後編ではまず、『1Q84』と春樹の他作品の関連性をピックアップします。そして『1Q84』とそれ以前に書かれた作品に出てくるモチーフの類似性からどのようなことが言えるかを論じていきたいと考えていきます。

1節 『1Q84』と他の春樹作品との類似性

 箇条書きですが他作品との関連性を以下に列挙します。

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・『風の歌を聴け』
1.全編でも少し触れましたが、両者は春樹作品には珍しく“メタ文学”であるということです。
「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」(『風の歌を聴け』冒頭)
・『羊をめぐる冒険』
1.「こちら側」(生の世界)と「あちら側」(死の世界)との媒介としての羊(=山羊)
2.耳モデルの女性=ふかえりの耳の描写(春樹の耳フェチは他作品にも出てきますよね(笑))

・「踊る小人」(『蛍・納屋を焼く・その他の短編』)
1.リトル・ピープル=踊る小人

・『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』
1.「クロスカッティング方式」
2.「世界の終わり」=「ハードボイルド・ワンダーランド」の主人公の脳内物語
  「1Q84」世界=ふかえりの『空気さなぎ』を主人公が書き換えた世界
3.「やみくろ」=「リトル・ピープル」

・『ノルウェイの森』
1.「愛する人の喪失」
2.「恋愛小説」の側面から描かれる「運命の愛」

・『ダンス・ダンス・ダンス』
1.母の不在。
「母親に置き去りにされた13歳の少女ユキの孤独」
「母親が「父親ではない別の男に乳首を吸わせていた」天吾の断片的な記憶」

・「TVピープル」(『TVピープル』)
1.「TVピープル」=『リトル・ピープル』

・『国境の南、太陽の西』
1.「幼少期に恋をしていた男女の再会」
(<「島本さん」と「僕」><「天吾」と「青豆」>)

・『ねじまき鳥クロニクル』
1.「愛する人の喪失」
2.「“何かしらの暴力”により傷ついている女性」
3.名前の類似性 加納マルタ→(アナグラム)→タマル
4.加納クレタ=「クレタ島への言及」、「『クレタ人は嘘つきだ』とクレタ人が言う」
5.同一人物?→綿谷昇の秘書「牛河」=「さきがけ」の諜報員「牛河」
6.「満州国」に対する言及
7.舞台=「1984年」
当初、僕は『1Q84』を『ねじまき鳥クロニクル』をアップデートしブラッシュアップしたものだと考えていました。やはりこう見ても関連が一番多いですね。

・『スプートニクの恋人』
1.「愛する人の喪失」
2.すみれ=「まわりから〈知恵遅れ〉じゃないかと思われていたくらいだった。」物事を考えるのに時間がかかった。(⇔ふかえり=「ディスレクシア」)

・『海辺のカフカ』
1.「クロスカッティング方式」
2.ナカタさんの口からでてくる「何か」

  「めのみえないヤギ」から出てくる「リトル・ピープル」
3.「エディプスコンプレックス」
4.「チェコ・コネクション」(カフカ・ヤナーチェック)
5.謎めいた過去の断片のフラッシュバック(ナカタさん・天吾)

・『アフターダーク』
1.「一人称複数形」(完全な三人称文体への前段階)→三人称文学へ
2.「名前の類似性」あさえり(浅井エリ)⇔ふかえり(深田絵里子)

・『アンダーグラウンド』(『2』も含む)
1.オウム真理教=宗教法人「さきがけ」
2.地下鉄サリン事件→実行犯の傘が尖らせてあった

  青豆の武器→細身のアイスピック
3.「さきがけ」の「おはらい」=オウムの「ポア」→正当化された「悪」
  自らの死を望んでいるリーダーを殺す=正当化された殺人→「ポア」

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2節 なぜ『1Q84』が最高到達点なのか〜ペシミスティックな感慨を添えて〜

 上記した春樹の他作品との共通点や類似は、「偶然」の範疇では片付けられないし、単なる「ファンサービス」でもないと思います。この構図には何らかの「意図」があるのではないでしょうか。
 「作品の登場人物の類似」や「様々なモチーフの継承」には各作品に独立性を持たせながらも「春樹作品群」という「1つの世界=歴史」を作る意図があるのではないでしょうか(オノレ・ド・バルザックの「人間喜劇」のように)。

 前述したように、ジョージ・オーウェルは『1984年』においてディストピアを描くことで「歴史を書き換えることは悪だ」というメッセージを込めました。春樹は『1Q84』において、それを受け継ぎつつ反転させ、「悪」と戦うために「歴史を書き換える」作品を作ると同時に今までの「春樹作品」という”歴史”に一段落付けたのではないでしょうか。
 つまり『1Q84』は今までの春樹作品の総括的役割も担っていると私は考えています。これほど春樹の他作品と関連付けられる春樹作品はありませんから。

 加えて『1Q84』には「総合小説」でもあります。

 春樹作品は

「「僕」と鼠3部作」→その後の「僕」→1人称複数→総合小説

という歴史を辿っています。

 「総合小説」とは春樹が90年代後半より仕切りに書きたいと語っていた形式で、「いろいろなパースペクティブをひとつの中に詰め込んでそれらを絡み合わせることによって、何か新しい世界観が浮かび上がってくる」ような小説のことです(ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』のような壮大な小説をイメージして下さい)。

 そのようなスケールの大きい作品を書く上で過去の作品のモチーフを召喚せざるを得なくなり、そのことでバームクーヘンのように多層的な作品群の総括的な作品になったのではないでしょうか。

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 近年、春樹は確実に「自分の老い」を感じ、「人生の総括」をしようとしていると思います。母校である早稲田大学に自分の資料を提供したり、小説家としての自分の作法や自分の人生に関することを著したり、ファンとコミットしようとメディアに露出したり、今までにない動きをしています。その理由は自分の最後を意識しているからではないでしょうか。

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 もちろん僕の人生の支え、文学の素晴らしさを教えてくれた春樹には1日でも長く生きて作品を発表して欲しいです。しかし春樹自身が言っているように「死は生の対極としてではなく、その一部として存在してい」ます。春樹がそれを意識しないわけがありません。

 残りの人生を考えると(そして実際に『1Q84』の後に出た作品を読んだ実感としても)、もうこれ以上の作品は生まれないというのが僕のペシミスティックな感慨から来る僕の感想です。

 そういう意味で『1Q84』が春樹作品の最高到達点だと僕は考えます。

3節 さいごに〜良い文学とは?〜

 蛇足ですが「良い文学」とは日常生活に響くものだと僕は思います。買い物をしていても、車を運転していても、料理をしていても(山崎まさよしの『one more chance〜』みたいですね笑)、何をしていてもふとした瞬間に頭をよぎるものです。他の日本文学との違い春樹は「日本語の美しさ」や「文化的なもの」に寄りかからない。だからこそアジア圏、ヨーロッパ圏などに関係なく世界40か国以上でボーダーレスに受け入れられ、評価されているんだと思います。

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 読者が国を超えて“共通の感覚”を感じられる最強の作者だと僕は思っています。

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『1Q84』を読んで、その世界観を補完する上で他の長編を読む。春樹に近づくためにエッセイを読む。春樹の世界に浸ることで人生は確実に豊かになります。

長々とお付き合いいただきありがとうございました。仕事の片手間で書いたので支離滅裂だと思いますが、「スキ」「感想」などお待ちしています!!


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