村上春樹論〜『1Q84』を最高到達点として〜前編


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1章:『1Q84』の周辺について

1節 作家概略〜Wikipediaより〜

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 村上 春樹(1949年1月12日 - )は、日本の小説家、アメリカ文学翻訳家。京都府京都市伏見区に生まれ、兵庫県西宮市・芦屋市に育つ。早稲田大学在学中にジャズ喫茶を開く。1979年、『風の歌を聴け』で群像新人文学賞を受賞しデビュー。1987年発表の『ノルウェイの森』は上下430万部を売るベストセラーとなり、これをきっかけに村上春樹ブームが起きる。その他の主な作品に『羊をめぐる冒険』『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』『ねじまき鳥クロニクル』『海辺のカフカ』『1Q84』などがある。日本国外でも人気が高く、柴田元幸は村上を現代アメリカでも大きな影響力をもつ作家の一人と評している。2006年、フランツ・カフカ賞をアジア圏で初めて受賞し、以後日本の作家の中でノーベル文学賞の最有力候補と見なされている。

主な作品リストは以下の通り

・『風の歌を聴け』 (79年)
・『1973年のピンボール』 (80年)
・『羊をめぐる冒険』 (82年)
・『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(85年)
・『ノルウェイの森』 (87年)
・『ダンス・ダンス・ダンス』 (88年)
・『国境の南、太陽の西』 (92年)
・『ねじまき鳥クロニクル 第1部 泥棒かささぎ編』 (94年)
・『ねじまき鳥クロニクル 第2部 予言する鳥編』 (94年) 
・『ねじまき鳥クロニクル 第3部 鳥刺し男編』(95年)
・『スプートニクの恋人』 (99年)
・『海辺のカフカ』 (02年)
・『アフターダーク』 (04年)
・『1Q84 BOOK 1』 (09年)
・『1Q84 BOOK 2』 (09年)
・『1Q84 BOOK 3』 (10年)
・『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(13年) 

・『騎士団長殺し第1部 顕れるイデア編』 (17年)  
・『騎士団長殺し第2部 遷ろうメタファー編 』(17年)
(中編・短編は省略)

2節 なぜここまで“好き嫌い”がはっきり分かれるか?

 アンチに話を聞くと、大体”いちばん最初に読んだものとして『ノルウェイの森』”を挙げるのが高確率です。春樹の小説のなかでいちばん有名な〈売れた〉作品(=代表作)だから春樹=『ノルウェイの森』の論理が成り立ってしまいます。
 逆に肯定派に同じ質問をすると「え?何でそこ??」という面白い答えが返ってきます(笑)『村上ラヂオ』、『中国行きのスロウ・ボート』、『羊をめぐる冒険』、『パン屋再襲撃』などなど。
 ここに肯定派とアンチ派を分けている、大きな誤解が生まれる原因があると思います。ファンなら誰しもわかると思いますが、『ノルウェイの森』は春樹の小説群のなかでは、ちょっと例外的な作品だからです。
 多くの春樹作品は予測不能な不可思議なことが起きて、”明確な解決がないまま不可思議なままで”(←ここがポイント!!)終わります。何も見えない暗い森の中を訳も分からずに歩かされているような、そういう感覚を楽しむ小説が大半です。 ファンタジック且つシュルレアリスティックな作品。それが春樹の魅力であり、一般的な読者を困惑させる装置です。

 『ノルウェイの森』(や近年描かれた『色彩を持たない〜』も、)は春樹の小説のなかでは例外的に、そのような”不可思議な出来事”や”奇妙な生き物”が登場しません。出典は忘れましたが、「そういった要素を登場させずに書くことがある種の“挑戦”だった」と春樹は語っています。

 また春樹に拒否反応を示している周囲の人に聞いた話を総合して考えると、「嫌いな理由」が男性と女性と綺麗に分けられます。


①性描写が多い(女性が敬遠する理由として多い)
 確かに!(笑)これは否めませんよね。ただし、春樹の小説では性行為すら一種の“メタファー”なのです。そういう意味では『ノルウェーの森』の結末であのような流れになるのも僕は合点がいきます。直接的なリアルな性行為なんだけれどもそれそのものを意味しません(うーん、この説明が難しい)。「何かと何かが結びつく記号」とでも考えてください。Fの描写が多いのは単なる春樹のフェチズムだと思っています(笑)

②ファッション孤独(男性が敬遠する理由として多い)
 春樹の描く“孤独”は、本当の“孤独”ではなくファッション孤独だ!俺なんかもっと孤独だぞ!という理由で敬遠する人が男性に多くいます。

 多くの村上春樹の小説の主人公は、あまり人付き合いが上手なタイプではありません。“孤独”とはいっても恋人か都合のいい美女がすぐに現れるし、経済的にも恵まれていて、友人もいる場合があります。そして、青山や恵比寿のオシャレなバーへ、颯爽と入っていく・・・。「そんなオシャレな“孤独”は“孤独”じゃない!」と鼻をフンガフンガさせて怒る男性が多いというのが(あくまで個人的な感触としてですが)僕の感想です。僕も浅く読んでいた大学時代は、同じ理由で春樹にリアリティを感じられず、それよりも実利的な学びが得られる「村上龍」派でした。

 「友人がいない、恋人がいない、お金がない」という”西村賢太”的(←この作家も大好きです。好きすぎて西村氏が通う鶯谷の飲み屋に行ったこともあります笑)な主人公も確かに“孤独”だけれど、それらをすべて手に入れた上でもまだ満たされない心もあるのでは?と僕は考えます。(つい先日亡くなった三浦春馬さんを『ダンス・ダンス・ダンス』の五反田君とオーバーラップさせる人が多くいます。現に今Yahooで「五反田君」で検索すると「五反田君 三浦春馬」と出てきました。
「孤独にも色々種類がある」ということです。

3節 『1Q84』と『1984年』の比較

『1Q84』の簡単なあらすじを以下に記します。その前に押さえておくべきことは小説の形式についてです。『1Q84』は『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』や『海辺のカフカ』と同様に「クロスカッテング」方式が採用されています。これは2つのストーリーが並行して進行し、最後に交わるというものです。
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 スポーツインストラクターであり、同時に暗殺者としての裏の顔を持つ青豆を主人公とした「青豆の物語」。冒頭、高速道路の途中でタクシーから降りると「1984」から月が2つある「1Q84」へスリップ。「Q」は「世界への疑い」=「クエスチョン」の意を込めています。
 もう1つは予備校教師で小説家を志す天吾を主人公とした「天吾の物語」。文芸雑誌の編集者に唆され、識字障害の深田絵里子(ふかえり)の口述した『空気さなぎ』を改作出版してブームに。

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 青豆は少女強姦する「さきがけ」のリーダーを殺し、自らを撃つ(未遂に終わる)。同時刻、天吾が父の病床で見た空気さなぎの中には青豆の姿があった。BOOK3 
 2つの物語に加え、青豆と天吾を調べる牛河を主人公とした「牛河の物語」が加わる(春樹ファンはまさか『ねじまき鳥〜』の牛河が!と驚いた)。生きて潜伏する青豆、彼女を追う牛河は、タマル(青豆の仲間でこの人も実は・・・)に殺される。結末で青豆と天吾は公園で20年ぶりの再会を遂げる。

 超端折って要約するとこんな感じです。さて、一方原型となった『1984年』はどのような物語でしょうか?こちらは多少詳しく記しておく必要がありますね。

ジョージ・オーウェル『1984年』あらすじ(1949年作)

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 1950年代に発生した核戦争を経て、1984年現在、世界はオセアニア、ユーラシア、イースタシアの3つの超大国によって分割統治されている。作品の舞台となるオセアニアでは、「ビッグ・ブラザー」によって思想・言語・結婚などあらゆる市民生活に統制が加えられ、物資は欠乏し、市民は常に「テレスクリーン」と呼ばれる双方向テレビジョンによって屋内・屋外を問わず、ほぼすべての行動が当局によって監視されている。ロンドンに住む主人公ウィンストン・スミスは、真理省の役人として日々歴史記録の改竄作業を行っていた。スミスは古道具屋で買ったノートに自分の考えを書いて整理するという、禁止された行為に手を染める。ある日の仕事中、抹殺されたはずの3人の人物が載った過去の新聞記事を偶然に見つけたことで体制への疑いは確信へと変わる。その後同僚の若い女性、ジューリアから手紙による告白を受け、出会いを重ねて愛し合うようになる。さらにウインストンが話をしたがっていた党内局の高級官僚の1人、オブライエンと出会い、体制の裏側を知るようになる。ところが、こうした行為が思わぬ人物の密告から明るみに出て、ジューリアと一緒にウィンストンは思想警察に捕らえられ、愛情省で尋問と拷問を受けることになる。彼は「愛情省」の101号室で自分の信念を徹底的に打ち砕かれ、党の思想を受け入れ、処刑(銃殺)される日を想いながら"心から"「ビッグ・ブラザー」を愛すようになるのであった。

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 一読した人には自明の理ですが、『1Q84』とは「物語を書き換える」物語です。元ネタになったG .オーウェルの『1984年』はいうまでもなく全体主義を批判したディストピア作品です。『1Q84』の中で、春樹は『1984年』を引用し、登場人物を通して以下のように説明しています。

 天吾「そう、今年がちょうど一九八四年だ。未来もいつかは現実になる。そしてそれはすぐに過去になってしまう。ジョージ・オーウェルはその小説の中で、未来を全体主義に支配された暗い社会として描いた。人々はビッグ・ブラザーという独裁者によって厳しく管理されている。情報は制限され、歴史は休むことなく書き換えられる。主人公は役所に勤めて、たしかことばを書き換える部署で仕事をしているんだ。新しい歴史が作られると、古い歴史はすべて廃棄される。それにあわせて言葉も作り替えられ、今ある言葉も意味が変更されていく。歴史はあまりにも頻繁に書き換えられているために、そのうちに何が真実だか誰にもわからなくなってしまう。(中略)正しい歴史を奪うことは、人格の一部を奪うのと同じことなんだ。それは犯罪だ(中略)僕らの記憶は個人的な記憶と、集合的な記憶を合わせて作り上げられている(中略)その二つは密接に絡み合っている。そして歴史とは集合的な記憶のことなんだ。それを奪われると、あるいは書き換えられると、僕らは正当な人格を維持していくことができなくなる
 ふかえり「あなたもかきかえている」(BOOK1p459・450(太字引用者))

 天吾はカルト教団「さきがけ」の内部事情を物語化したふかえりの『空気さなぎ』を書き換えることで「カルト集団に対する抵抗の拠点」となっています。そしてそのことで天吾やふかえりにはもちろん、青豆にも危険が及びます。
 天吾(=ふかえり)が描いた『空気さなぎ』の世界に青豆が「スリップします。その世界の象徴が”月が二つある世界”です。つまり天吾が「書き換えた」世界に天吾たちは住んでいることになります。

 G .オーウェルは『1984年』で” 全体主義”、”マインドコントロール”、”洗脳の恐怖”を「歴史を書き換えること」で表現しました。そして「歴史を書き換えること」は「悪」だと結論づけます。
  村上春樹は『1Q84』においてそれをただ単純に受け継ぐだけではなく、”反転”させます。ここが面白いポイントですよね。「物語を書き換えること」で全体主義、マインドコントロールと戦う拠点を作り出す。つまり「悪」と戦うために「物語を書き換える」ということです。

4節 「物語(フィクション)について考える」物語

 僕は春樹研究者の端くれであると同時に芥川賞受賞作品・芥川賞候補作品のコレクトもしています。『1Q84』という作品の中には春樹作品群の中では異例中の異例である「芥川賞」「新人文学賞」「編集者と作家との関係(天吾と小松)」「チェーホフの銃(「物語の中に拳銃が出てきたら、それは発射されなくてはならない」という文学理論めいたもの)」等々の文学に関連する用語を出します。

 このような”メタフィクション”(作品(物語)の中で、物語についての言及、物語の引用が多く出てくること。わかりやすい例として下図の『ドラえもん』を参照して下さい(笑))的要素は『風の歌を聞け』以来です(のちに詳述)。これらにどういう意味が考えられるのでしょうか。

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 天吾は『空気さなぎ』を書き換えことで1984年から1Q84年へ変質させてしまいます。これはつまり「自分では知らないうちに歴史を書き換えた」ということができます。

 北海道大学大学院教授の中村三春氏は講演で「春樹は「書き換えられた歴史としての物語」によって感動を与え決して超えられない現実を超えようとしたのではないでしょうか」と述べています。
(『村上春樹「1Q84」を読むー物語をかきかえるー』(podcast))

 この中村氏の話を補完する上で春樹自身の発言も知っておく必要があります。

5節 「卵と壁」発言について〜Always on the side of the egg〜

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 2009年1月21日、イスラエルの『ハアレツ』紙が春樹のエルサレム賞受賞を発表しました。以下に日本語訳を掲載します。長いですがこれはカットすると本意が伝わらない可能性があるし、最近発売されたエッセイ『猫を棄てる 父親について語るとき』(文藝春秋 2020年4月)にも共通するエッセンスもあるので是非味わって下さい。

-常に卵の側に-  村上 春樹

 私は今日小説家として、ここエルサレムの地に来ています。小説家とは、“嘘”を糸に紡いで作品にしていく人間です。

 もちろん嘘をつくのは小説家だけではありません。知っての通り、政治家だって嘘をつきます。外交官だろうと、軍人であっても、あるいは車の販売員や大工であろうと、それぞれの場に応じた嘘をつくものです。しかし、小説家の嘘は他の職業と決定的に異なる点があります。小説家の嘘が道義に欠けるといって批判する人は誰もいません。むしろ小説家は、紡ぎだす嘘がより大きく巧妙であればあるほど、評論家や世間から賞賛されるものなのです。なぜでしょうか。

 私の答えはこうです。小説家が巧妙な嘘をつく、言いかえると、小説家が真実を新たな場所に移しかえ、別の光をあて、フィクションを創り出すことによってこそ、真実はその姿を現すのではないかと。ほとんどの場合、真実を正確に原型のまま把握することは実質的に不可能です。そう考えるからこそ、私は真実を一度フィクションの世界へと置き換え、その後フィクションの世界から翻訳してくることによって、隠された場所に潜む真実をおびき寄せ、その尻尾を掴み取ろうとしているのです。そのためには、まずはじめに私たちの中にある真実がどこにあるのかを明らかにしなければなりません。これは良い嘘をつくためにはとても重要なことです。

 しかしながら、今日は、私は嘘をつこうとは思っていないのです。私はできるだけ正直であろうと思っています。私が嘘をつかない日は一年のうちほんの数日しかないのですけれども。しかし、今日はそのうちの一日です。

 そういうわけで、“本当のこと”をお話します。このエルサレム賞は受け取らないほうが良いのではないか、この地に来ないほうが良いのではないか、そう助言してくる人が少なからずいました。もしここに来れば私の本の不買運動を展開すると警告してくる人さえいました。

 もちろんその理由は、ガザ地区で激しい戦闘があったからです。国連のレポートによると、1,000人以上の人々が封鎖されたガザの中で命を落としました。その多くは、子供や老人も含む非武装市民です。

 授賞式の案内が届いてからずっと、私は自らに問いかけてきました。このタイミングでイスラエルの地を訪れ文学賞を受賞することがはたして適切だろうか、このような衝突下にあって、わたしが片方を支援するという印象をつくり出してしまうのではないか。圧倒的な軍事力を浴びせることを選択した国家政策を支持することになるのではないか、と。もちろん私はそのようなことを望んでいません。私はいかなる戦争も支持しませんし、いかなる国の支援もおこないません。付け加えれば、私の本が不買運動をおこされるのを見たいとも思いませんしね。

 悩みぬいた末、しかしながら最終的に私はこの地に来ることにしたのです。決断した理由の一つは、あまりに多くの人がこの地にこないほうが良いと私に言ってきたからです。他の多くの小説家と同様、私は自分に言われることと全く反対のことをする傾向があります。「そこに行かないほうがいい」、「そんなことはしないほうがいい」と言われると、ましてや警告なんてされようものなら、私は「そこに行きたくなる」し、「それをしたくなる」のです。これはいうなれば小説家としての私の特性です。小説家というのは特殊な人種です。小説家は、自分の眼で見たり、あるいは手で触れたりした感覚無しには、何も信じることができないのです。

 これが、私がここにきた理由です。私は欠席するよりもこの場所に来ることを選びました。何も見ないよりも自分の眼で見ることを選びました。そして沈黙でいるよりも話すことを選んだのです。これは、私が政治的メッセージをこの場に持ってきた、ということではありません。もちろん善と悪を判断することは小説家には最も大事な役割の一つではあります。

 しかし、その判断をどのような形で他に伝えるかということについては、それぞれの書き手に委ねられているのです。私自身は、それを現実を超えた物語に変換することを好みます。今日皆さんの前に立って政治的メッセージをお話するつもりがないというのは、そういう理由からです。

 そのかわり、この場で極めて個人的なメッセージをお話しすることをお許しください。これは私がフィクションを書く間、ずっと心に留めていることです。紙に書いて壁に貼るとか、そういったことではなく、私の心の奥に刻み付けていることがあるのです。それはこういうことです。

「高くて硬い壁と、壁にぶつかって割れてしまう卵があるときには、私は常に卵の側に立つ」

 そう、壁がどんな正しかろうとも、その卵がどんな間違っていようとも、私の立ち位置は常に卵の側にあります。何が正しくて何が間違っているか、何かがそれを決めなければならないとしても、それはおそらく時間とか歴史とかいった類のものです。どんな理由があるにせよ、もし壁の側に立って書く作家がいたとしたら、その仕事にどんな価値があるというのでしょう。

 この比喩の意味するところは何でしょうか。あるケースにおいては、それはあまりにも単純明快です。爆弾・戦車・ミサイル・白リン弾は高くて硬い壁である。卵はこれらに撃たれ、焼かれ、つぶされた、非戦闘市民である。これがこの比喩の意味するところの一つです。

 しかしこれが全てではありません。もっと深い意味もあるのです。このように考えてみませんか。私たちは皆それぞれ、多かれ少なかれ、一つの卵であると。皆、薄くてもろい殻に覆われた、たった一つのかけがえのない魂(たましい)である、と。これは私にとっての“本当のこと”であり、皆さんにとっての“本当のこと”でもあります。そして私たちは、程度の多少はあるにせよ、皆高くて硬い壁に直面しているのです。この壁には名前があります。それは“システム”というのです。“システム”は私たちを守ってくれるものですが、しかし時にそれ自身が意思を持ち、私たちを殺し始め、また他者を殺さしめるのです。冷たく、効率的に、システマティックに。

 私が小説を書く理由は、たった一つしかありません。それは個が持つ魂の尊厳を表に引き上げ、そこに光を当てることです。小説における物語の目的は警鐘を鳴らすことにあります。糸が私たちの魂を絡めとり、おとしめることを防ぐために、“システム”に対しては常に光があたるようにしつづけなくてはならないのです。小説家の仕事は、物語を書くことによって、一人ひとりがそれぞれに持つ魂の特性を明らかにしようとすることに他ならないと、私は信じています。そのために、生と死の物語、愛の物語、あるいは多くの人が泣いたり、恐れおののいたり、笑い転げたりする物語を紡いできたのです。これが私が、来る日も来る日も、徹底的な深刻さで大真面目にフィクションを紡いでいる理由なのです。

 私の父は昨年90歳で亡くなりました。父は教師を引退し、たまにパートタイムのお坊さんとして働いていました。父は学生だった時に、陸軍に招集され中国の戦場に送られました。戦後生まれの私は、毎朝朝食の前に、我が家の仏壇の前で父が長く深い祈りをささげているのを見ていました。あるとき私は父に、なぜそんなことをするのかと尋ねました。父は私に、あの戦争で亡くなった人のためにお祈りをしているのだと教えてくれました。

 父は、敵も味方も関係ない、亡くなった全ての人のために祈っているのだ、と言いました。仏壇の前で正座している父の背中をじっと見つめるうちに、私は父の周りを漂っている“死の影”を感じた気がしたのです。

 父が亡くなると同時に、私が決して伺い知ることのできなかった父の記憶も失われてしまいました。しかし、私の記憶の中にある、父の陰に潜む“死の存在”は、今なおそこにあるのです。これは、私が父から引き継いだ、ほんの小さな、しかし最も重要なことの一つです。

 私が今日、皆さんに伝えたいと思っていることは、たった一つだけです。私たちは皆、国家や民族や宗教を越えた、独立した人間という存在なのです。私たちは、“システム”と呼ばれる、高くて硬い壁に直面している壊れやすい卵です。誰がどう見ても、私たちが勝てる希望はありません。壁はあまりに高く、あまりに強く、そしてあまりにも冷たい。しかし、もし私たちが少しでも勝てる希望があるとすれば、それは皆が(自分も他人もが)持つ魂が、かけがえのない、とり替えることができないものであると信じ、そしてその魂を一つにあわせたときの暖かさによってもたらされるものであると信じています。

 少し考えてみましょう。私たちは皆それぞれが、生きた魂を実体として持っているのです。“システム”はそれをこれっぽっちも持ってはいません。だから、“システム”が私たちを利用することを決して許してはならない、“システム”に意思を委ねてはならないのです。“システム”が私たちを創ったのではない、私たちが“システム”を創り出したのですから。

 以上が、私が皆さんにお話しようと決めた内容の全てです。

 最後に、このエルサレム賞の受賞について、心から感謝申し上げたいと思います。また、私の本が世界中の多くの人々に読まれていることについても、同様に感謝申し上げます。そして今日、この場で皆さんにお話する機会を提供いただいたことに、お礼申し上げます。 


 このスピーチには様々な国の多くの人から称賛されました。 

 日本ではどのように論じられてきたかを見てみましょう。

 「壁というのは、過激なシオニストたちにだけでなく、イスラム原理主義者にもなりうる。その場合、卵は自爆テロの犠牲になるイスラエル市民をさす(中略)だから、イスラエル政府があらかじめ村上のスピーチ原稿を読んだとしても、手直しを要求するまでもなかった。」(越川芳明「「卵と壁」を越えて」『村上春樹『1Q84』をどう読むか』(河出書房新社))

 「イスラエルとパレスチナの問題にしても、果たしてイスラエルを一方的に悪者にすればすむ問題かといえば、そうでないと思います。パレスチナを卵の側にあるとは断言できません。」(島田裕巳「これは「卵」側の小説なのか」同著)

「村上が事前に送った原稿が削除や手直しを要求されなかったのは当然だろう(中略)。なぜなら、まさにこういうふうに中辛くらいの味付けで語ってほしい、と『壁』が願ったとおりに『卵』はしゃべって来たにすぎないのだから」(立野正裕『社会評論』157号 2009年)

 春樹に対して国際社会が同調する時、日本では冷笑されるか批判されるという現象は今に始まったことではありません。春樹が海外で発言するけど日本ではしないことが理由はこれでしょうね。しかしこれらの指摘は果たして正鵠を射ているといえるのでしょうか。


 オウム真理教の内側から日本社会を見るというドキュメンタリーで一世を風靡した森達也氏の指摘が僕的には一番しっくり来ました。

 「「卵と壁」の宣言が、村上さんの解答です。(中略)今困っている人、死にかけている人、つらい思いをしている人の側に立つという宣言です。」(森達也「相対化される善悪 オウム真理教事件から14年経て辿り着いた場所」『村上春樹『1Q84』をどう読むか』(河出書房新社))

 また、前記した中村氏は講演で「卵は「フィクション(物語)」で、壁は「現実世界」ではないか」と述べています。(『村上春樹「1Q84」を読む-物語をかきかえる-』(podcast)

 捉え方によって、「卵」と「壁」は姿を変えるということではないだろうか。当たり前だが「善」と「悪」は時代が変われば平気で逆転するのと同じである。

 つまり春樹は「常に弱者の側に立つ」という姿勢の表明をしただけで具体性のある発言をした訳ではないので、「卵」が何で「壁」が何かなんてことを論じること自体がナンセンスなのではないだろうか。何が「卵」で何が「壁」となりうるか(「善」と「悪」とも置換可能)が不明瞭な「現実世界」への対抗策としての「物語」(フィクション)の力を伝えたかったのではと僕は考えています。

 長くなってしまいましたが後編ではなぜ『1Q84』が作品群の中において「最高到達点」なのかを中心に論じていきます。

お付き合いありがとうございました!





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